映画館と観客の文化史
幾分大袈裟に過ぎるかもしれませんが、この本は従来の映画史を根底から覆しかねない一冊と申し上げてよいでしょう。
英国の作家ダグラス・アダムス氏によれば、文明はその発展段階に応じて典型的な三つの問いを発するそうです。最初は“いかに”、次に“なぜ”、そして最後の問いが“どこで”。言い換えればこの問いは、「いかにして1800円工面するか」「なぜこの映画を観るのか」「日曜にどこの映画館に行こうか」となります。
冗談はさておき、「映画館と観客の文化史」は、歴史上人々がどこで映画を見てきたかを明らかにすることで、そもそも映画とは何か?という根源的な謎に王手をかけた、まことに驚嘆すべき本だと思うのです。
この本で示されているように、他のメディアと比較して映画は「どこで観たか」にその印象を大きく左右されます。例えば、小説を図書館で読み、家で読み、通勤電車で読んだ場合を考えてください。物語の印象は、さほど読む場所に左右されないはずです。
一方、映画はどうでしょうか?卑近な例を挙げますに、シネコンでカップルに囲まれて野郎一人が観る『キル・ビル』と、雀荘隣の名画座で年期の入った大学の先輩と連れ立って観る『キル・ビル』は、もはやまったくの別物と言って過言ではないはずです。
「映画館と観客の文化史」は、映画館のあり方が映画のあり方にどのような影響を与えてきたかを論じるだけではなく、 “映画は映画館で観るものである”とする暗黙の前提にも切り込んでいます。
映画はそもそも映画館で鑑賞するものであり、ビデオやDVDで見てもそれは映画の劣化コピーを見ているに過ぎない、そう考えている人は大勢居ますし、評論家の中にも暗にあるいははっきりと口に出してそう主張する人が見受けられます。
この映画館至上主義の論拠は、映画の始まりをリュミエール兄弟の発明と上映興行に置くリュミエール映画史観に求められます。ゴダールの『映画史』などはまさにその典型でした。
しかし「映画館と観客の文化史」によれば、この歴史観は必ずしも正しいわけでもないようです。リュミエール兄弟よりも前に、エジソンは覗き機関としてフィルムの上映興行を行っていました。これは一人で動画を見るための装置であり、言い換えれば個人が空間を私的に占有して映画を観るための上映設備であって、ビデオやDVDの遠いご先祖様に当ります。
つまり、映画の歴史は映画館から始まったのではなくビデオやDVDに近い上映型式で始まっていたことになります。
リュミエール映画史の側からすれば、現在覗き機関式の映画館が残っていないのは、リュミエール兄弟の新発明により時代遅れとなって駆逐されたためである、とされています。
しかし、どうやら映画館と一口に言っても、私的な空間を館内に持ち込むことを前提とした型式のものから、現在の日本で一般にイメージされるよそ行きの娯楽まで様々なタイプがあり、リュミエール兄弟から一貫して上映スタイルが不変であったとする見方は誤りのようです。
映画の根源を一つに絞ることが出来ないとすれば、古く不完全な映画館から新しく優れた映画館へ一本の直線を引いて進歩が測れるとする考えも誤りと判ります。現在あちらこちらにシネコンが建てられているのは、シネコンが歴史上最も優れた映画館だからなのか?
そうではありません。居心地を追求した高級志向の巨大映画館としてはピクチュア・パレスに大きく劣り、仲間と連れ立っていく打ち解けた空間としてはドライヴ・イン・シアターに大きく劣り、スクリーンのサイズは常設館の草分けであるニッケル・オディオンに次ぐほど小さいのです。
シネコンが最も優れた、最も居心地の良い、最先端の、最高の映画館だからこれだけ多く建てられたのだ、と考えるのは誤りです。シネコンはあくまで、現時点で生き残るのに適した興行形態の一つに過ぎないのです。
長々と語って参りましたが、そもそも映画館とは、そして映画とは何か?
残念ながら手前はまだ、この話題を皆様に解り易く、短く、簡潔に提示することが出来そうにありません。これだけ述べても「映画館と観客の文化史」に書かれている内容のほんの一端しか紹介できていないのです。
ですから、興味のある方は実際に本を手にとって読んでみてください。
相応の本数映画を観てきた人なら、この本には書かれていないことにも必ず気が付くはずです。タランティーノ監督がビデオ屋の店員出身であることと、彼がドライヴ・イン・シアター映画に題材を求めることの関連を見出すかもしれません。あるいは、『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』のモデルとなったウィリアム・キャッスル監督が映画史上の突然変異ではなく、ギミック映画を許容する基盤が以前からあったことに気付く人も居るでしょう。
この本から引き出すことの出来る話題は山ほどあります。
ですから、興味のある方は実際に本を手にとって読んでみてください。
とりあえず手前は、「最近の映画は女に媚びてていけねえや」が口癖の友人に、百年前から映画館の観客の四十%が女性であったことと、ドライヴ・イン・シアターは家族連れを対象として作られたことを聞かせた後で、ゴダールの『映画史』を有難がって「午後のロードショー」を観ようとしない友人にこの本を貸すつもりです。
英国の作家ダグラス・アダムス氏によれば、文明はその発展段階に応じて典型的な三つの問いを発するそうです。最初は“いかに”、次に“なぜ”、そして最後の問いが“どこで”。言い換えればこの問いは、「いかにして1800円工面するか」「なぜこの映画を観るのか」「日曜にどこの映画館に行こうか」となります。
冗談はさておき、「映画館と観客の文化史」は、歴史上人々がどこで映画を見てきたかを明らかにすることで、そもそも映画とは何か?という根源的な謎に王手をかけた、まことに驚嘆すべき本だと思うのです。
この本で示されているように、他のメディアと比較して映画は「どこで観たか」にその印象を大きく左右されます。例えば、小説を図書館で読み、家で読み、通勤電車で読んだ場合を考えてください。物語の印象は、さほど読む場所に左右されないはずです。
一方、映画はどうでしょうか?卑近な例を挙げますに、シネコンでカップルに囲まれて野郎一人が観る『キル・ビル』と、雀荘隣の名画座で年期の入った大学の先輩と連れ立って観る『キル・ビル』は、もはやまったくの別物と言って過言ではないはずです。
「映画館と観客の文化史」は、映画館のあり方が映画のあり方にどのような影響を与えてきたかを論じるだけではなく、 “映画は映画館で観るものである”とする暗黙の前提にも切り込んでいます。
映画はそもそも映画館で鑑賞するものであり、ビデオやDVDで見てもそれは映画の劣化コピーを見ているに過ぎない、そう考えている人は大勢居ますし、評論家の中にも暗にあるいははっきりと口に出してそう主張する人が見受けられます。
この映画館至上主義の論拠は、映画の始まりをリュミエール兄弟の発明と上映興行に置くリュミエール映画史観に求められます。ゴダールの『映画史』などはまさにその典型でした。
しかし「映画館と観客の文化史」によれば、この歴史観は必ずしも正しいわけでもないようです。リュミエール兄弟よりも前に、エジソンは覗き機関としてフィルムの上映興行を行っていました。これは一人で動画を見るための装置であり、言い換えれば個人が空間を私的に占有して映画を観るための上映設備であって、ビデオやDVDの遠いご先祖様に当ります。
つまり、映画の歴史は映画館から始まったのではなくビデオやDVDに近い上映型式で始まっていたことになります。
リュミエール映画史の側からすれば、現在覗き機関式の映画館が残っていないのは、リュミエール兄弟の新発明により時代遅れとなって駆逐されたためである、とされています。
しかし、どうやら映画館と一口に言っても、私的な空間を館内に持ち込むことを前提とした型式のものから、現在の日本で一般にイメージされるよそ行きの娯楽まで様々なタイプがあり、リュミエール兄弟から一貫して上映スタイルが不変であったとする見方は誤りのようです。
映画の根源を一つに絞ることが出来ないとすれば、古く不完全な映画館から新しく優れた映画館へ一本の直線を引いて進歩が測れるとする考えも誤りと判ります。現在あちらこちらにシネコンが建てられているのは、シネコンが歴史上最も優れた映画館だからなのか?
そうではありません。居心地を追求した高級志向の巨大映画館としてはピクチュア・パレスに大きく劣り、仲間と連れ立っていく打ち解けた空間としてはドライヴ・イン・シアターに大きく劣り、スクリーンのサイズは常設館の草分けであるニッケル・オディオンに次ぐほど小さいのです。
シネコンが最も優れた、最も居心地の良い、最先端の、最高の映画館だからこれだけ多く建てられたのだ、と考えるのは誤りです。シネコンはあくまで、現時点で生き残るのに適した興行形態の一つに過ぎないのです。
長々と語って参りましたが、そもそも映画館とは、そして映画とは何か?
残念ながら手前はまだ、この話題を皆様に解り易く、短く、簡潔に提示することが出来そうにありません。これだけ述べても「映画館と観客の文化史」に書かれている内容のほんの一端しか紹介できていないのです。
ですから、興味のある方は実際に本を手にとって読んでみてください。
相応の本数映画を観てきた人なら、この本には書かれていないことにも必ず気が付くはずです。タランティーノ監督がビデオ屋の店員出身であることと、彼がドライヴ・イン・シアター映画に題材を求めることの関連を見出すかもしれません。あるいは、『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』のモデルとなったウィリアム・キャッスル監督が映画史上の突然変異ではなく、ギミック映画を許容する基盤が以前からあったことに気付く人も居るでしょう。
この本から引き出すことの出来る話題は山ほどあります。
ですから、興味のある方は実際に本を手にとって読んでみてください。
とりあえず手前は、「最近の映画は女に媚びてていけねえや」が口癖の友人に、百年前から映画館の観客の四十%が女性であったことと、ドライヴ・イン・シアターは家族連れを対象として作られたことを聞かせた後で、ゴダールの『映画史』を有難がって「午後のロードショー」を観ようとしない友人にこの本を貸すつもりです。