無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

フランダースの犬 あるいはハリウッドでは何故ハッピーエンドが望まれるのか

アメリカで実写版『フランダースの犬』が公開されたとき、ハッピーエンドに差し替えられていた、それどころか原作どおりのエンディングで公開された国はきわめて少数だった、という話は手前も以前から耳にしておりました。

アメリカ公開版を見たことがございます。えーと確か、神様に魂を戻してもらって生き返ったネロは棺から起き上がり、父と和解し、ネロを嫌っていた人々は心を入れ替えて、絵のコンクールで逆転優勝して画家への足がかりを得る怒涛のハッピーエンドでした。

この記事(「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071225-00000302-yom-ent)によりますと、日本で『フランダースの犬』のバッドエンド(見方は色々あるでしょうが、便宜上あれをバッドエンドと呼んでおきます)が人気であることの理由に、“滅びの美学”が挙げられております。

手前愚考いたしますに、無常観と分かち難く結びついている滅びの美学と、悲劇の主人公への共感を区別せず一緒くたにして語るのは、些か乱暴であるように思うのです。

「西欧では精緻なバラを美の象徴とするが、日本では散りゆく桜を美の象徴とする。これは滅びの美学に基づいているのである。」というのが、美術を語るときにしばしば挙げられる例えです。

しかし、「滅びの美学」とは、卑近な例えをお許し願えるならちょいワル、モテカワ、アキバ系などのキャッチコピーと同レベルに無内容であり、判ったつもりにさせる単純化に過ぎないと思うのでスイーツ。

近年多いのは、国際情勢を語るときに「○○人は××教徒だから△△だ」の類の単純化でしょう。

例えば、「江戸時代の日本人は敬虔な仏教徒だから家畜を食べなかった」。これは正しいでしょうか?確かに江戸時代において、仏教が今以上に宗教上のおおきなウエイトを占めていました。しかし、江戸時代にも魚や猪、兎と鳥肉は食卓に供されていたことをどう説明するのでしょうか。

理由を宗教に求めるよりも、国土の多くが山岳地帯で平地は都市として利用され、農村では家畜は農耕に利用され、山地では狩猟採集生活が長く続いた産業構造に原因がある。そう考えるほうが自然です。家畜を食べようにも生産に適した土地も経済的余剰もなかった、宗教はそのことを追認したに過ぎない。化石燃料による産業の変化と食糧自給の放棄により、近代以降に始めて畜産を大規模に行うことが出来たのであり、肉食忌避と精神文化はそれほど強く結びついたものではない。そう考えるほうが妥当と思うのです。

火事と喧嘩は江戸の華」とする江戸っ子気質を“滅びの美学”から読み解く向きもありましょうが、江戸の野次馬達が大火のたびにお祭り騒ぎに興じたのは、復興景気で懐があったかくなることを薄々感づいていたからです。つまるところ、文化や風習は経済と無関係に成立することはできないのです。
精神性や美学なんて社会全体にとってはあくまでパーツの一つ、そこまで重要なものではないのです。

もし“滅びの美学”を持ち上げ散る桜を誉めるのであれば、椿の花の散る姿が死を予感させて不吉であるとする風習との整合性も明らかにしなければならないでしょう。椿の花が不吉であるとされるのは、椿の花が投機で高騰した際に、値を下げるために流した噂がもとだとする説がございます。

一見すると新世相と思われるものがじつは古い伝統を礎としていたり、古代からの文化と思われているものが存外新しい習慣だったり、精神的な文化が実は経済的な要因と分かち難く結びついていたりするので、文化について調べるのは難しく、また面白いものであります。

「宵越しの金を持たない」江戸の人々がわずか百年で、世界でもまれに見るほど貯蓄性向の高い気風を獲得するにいたったのは何故か?などは、それだけで一冊の本が書けそうです。

さて、ここで視点を変えてハリウッドのハッピーエンド志向について考えてみましょう。

「カルト映画館 ホラー」で示されているように、ハリウッドでリメイクすると『失踪』でさえハッピーエンドになってしまうのです。

劇場公開版『キャプテン・スーパーマーケット』や『タイムマシン』でも見られる、“失われたものは取り戻されなければならない、取り戻せないのならばもっと良いものを手に入れ補われなければならない”とする強迫的前向き思考はアメリカ合衆国の文化や国民の気風にあるのでしょうか?

それともハリウッドでは映画の最終編集権が監督ではなくプロデューサーにあり、統計的社会学的に観客を捉えて最大多数の集客を追及する産業構造に原因があるのでしょうか?

悲劇を観終わった後の観客にアンケートをする様子を想像してみましょう。回答の多くが「主人公には幸せになって欲しかった」になるはずです。幸せになるべき人物が不幸に陥るのが悲劇の要諦なのですから当たり前のことですね。

ここで問題が生じます。アンケートを採ると主人公の境遇に共感した人も、結末が心底気に食わなかった人も等しく「主人公には幸せになって欲しかった」と回答するわけです。結末に不満があるのか、主人公に共感にしているのか、統計からは判らないのです。

観客に受け入れられているかどうか統計で明確に判断できるハッピーエンドの方が、商品としては安心して送り出せるでしょう。こうしてハリウッドはハッピーエンドに席巻され、観客が悲劇を受け入れる下地が失われていったのではないか。

この説を補強する証拠を挙げるとすると、最終編集権が監督側にあれば、『シン・シティ』のような結末の映画も作られることを提示できます。『俺たちに明日はない』『ワイルドバンチ』『戦争のはらわた』のような、一般的な意味で言うハッピーエンドでない物語が多々作られてきたことも事実であり、国民性にのみハッピーエンド志向の理由を求めるのには無理があるはずです。

ハリウッドのハッピーエンド志向を、あるいは日本において“泣ける邦画”がヒットを続けている理由を国民性のみに求めるのは必ずしも正しくない。産業構造上の要因にも目を向けねばならない。手前かように愚考いたしました次第。

思いますに、日本で『フランダースの犬』が悲劇の傑作として受け入れられている理由としては、アニメ版の観客生産力が強かったという単純なものを挙げておきたいのです。

アメリカの先住民が西部劇を観て、主人公の白人カウボーイに感情移入するのは先住民が文化を喪失したからではなく、単に映画の観客生産力が強かったから。端的に言って映画が面白かったから主人公に感情移入した、というのと同程度には根拠がある理由じゃないかと思うんですけど、どうっすか。

例えば、幼い子供がただひたすら酷い目に遭うエドワード・ゴーリー氏の絵本も、優れた腕を持った監督がアニメ化し、一年かけてじっくり主人公の境遇を描いていけば、不条理コメディではなく優れた悲劇として捉えなおすことも出来ると思うのです。

もちろん、産業構造と文化は卵と鶏の関係でして、どちらが最初にあってどちらが優れているといった結論の出る話題ではないわけであって、それゆえにエッグラチキーラ大喧嘩ってな永遠の問題ではございます。手前がここまで長々と述べてきたことはドキュメンタリー作家の方には織り込み済みの話題でしょう。三年の歳月と大勢への聞き取りを行ってきた『パトラッシュ』の監督はどのような過程を経て、どのような結論を出したのか。手前そのことにこそ大きな興味がございます。

参考、というか今月読んだ本
明治大正史世相篇 柳田邦男
食と文化の謎 マーヴィン・ハリス
映画館と観客の文化史 加藤幹郎
カルト映画館 ホラー 永田よしのり編