無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

西部劇は歯が命「ランゴ おしゃべりカメレオンの不思議な冒険」

時代劇の鑑賞ポイントとして、その時代劇がどの程度本気であるか測る指標として、月代(さかやき)・・・えーと、マゲの周りの頭頂部から前髪部分にかけての剃っている部分のことです、の伸び具合に注目するという見方が有ると言われます。

どういうことかと申しますと、登場人物の経済状況や体調、その時置かれた状況によって、月代を剃る余裕の有る無しが変わるはずである。病人や食うや食わずの生活をしている人物、旅の途中の登場人物が綺麗に剃り上げた月代であるような時代劇は、本気で舞台を再現する気がないものである。あたかもジャングル奥地を探検する冒険家一行の紅一点がハイヒールで化粧バッチリであるが如し!

逆に言えば、登場人物の置かれた状況によって月代の伸び具合が異なっている時代劇は、些細な身だしなみ一つにまで気を配って当時の空気を再現しようとする本気の時代劇である、というのが月代指標仮説です。

さて、日本の時代劇に相当するアメリカの映画ジャンルは二つあると手前考えておりまして、その一つはまず間違いなく西部劇だと思うのです。「七人の侍」に対する「荒野の七人」、「用心棒」に対する「荒野の用心棒」などから、親和性は明らかです。

西部劇の本気度を測る尺度を考えてみますに、それは前歯が汚い俳優をどれだけ揃えられるかによる、前歯指標が使えると考えられます。現代の俳優のようにピカピカの歯並びをした住人が、西部の荒野の寂れた町に大勢暮らしているわけが無いのです。西部劇の舞台をキッチリ再現するには、汚い前歯、ガタガタの歯並びが欠かせないのです。「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」でも、1985年から西部開拓時代にタイムスリップしてきたマーティーが、歯並びの良さを荒くれ者から揶揄されるという場面がありました。

前歯指標によれば、「ランゴ おしゃべりカメレオンの不思議な冒険」は本気の西部劇です。「ランゴ」は、砂漠の動物たちを擬人化したCGアニメなのですが、前歯が汚い。そして体毛には皮脂がべっとり、毛穴には黒ずんだ砂埃が詰まっています。擬人化された砂漠の動物たちというのも、ドクトカゲやタランチュラ、モグラやネズミにガラガラヘビといった、世間一般では害獣とされているような生き物ぞろいで、汚らしい西部の町並みを動物CGアニメで再現しようという気概が感じられて実に良いものです。

DVDの特典映像で、動物オt、・・・じゃなかった専門家の皆様が、ものすごいハイテンションで砂漠の生物の多様性を語りまくってくれるので、とても楽しいですよ。(ロサンゼルス自然史博物館の爬虫類担当者の髪型が、どんな映画のジョニデよりも奇抜だった。)

普通は可愛らしい動物が出るはずの動物CGアニメでありながら、登場人物の多くが害獣、という冗談のような映画ですが、西部劇とは何であるかを時にジョーク混じりで、時にメタ視点を取り入れて語っているのです。さらには、物語の構造そのものについても言及している知的な映画なのです。

主人公のカメレオンの声を演じているのは、ジョニー・デップ。カメレオンそのものの容貌として描かれるのですが、ギョロっと見開いた目でやや猫背気味に、肘から先をプランプランと前後させる独自のジョニデウォークや、首を前に伸ばし両手を前に突き出しガニ股で、頭を小刻みに左右に揺すりながら走るいつものジョニデダッシュを見ているうちに、ジョニー・デップそのものに見えてくるから不思議なもんです。

「ランゴ」においては、主人公の成長過程がそのまま、西部劇の歴史と重ね合わされています。具体的に言いましょう。物語の前半、主人公のカメレオンが腕利きのガンマンを“演じている”場面では、飾りがいくつも吊された布製のつば広帽、大きな襟のシャツに花柄ベストと派手な衣装を着用しています。これは、西部劇においてリアリティが求められていなかった時代、銃で撃たれても血が出ることがなかったような、あくまで作り物の世界を描いた、古典的な西部劇で多く使われた衣装です。その後、深刻な事態に巻き込まれると、主人公はカウボーイハットに革ベスト、ジーンズといった、一般的な西部劇に近い衣装に着替えます。

物語の後半においては、擦り切れたポンチョに頭頂部が平らな革のつば広帽を身に着けています。これは「夕陽のガンマン」に代表されるマカロニウェスタンのアイコンとなっている衣装です。マカロニウェスタンの映画史上の意義を話すと長くなってしまうので、以下の内容を述べるに留めておきます。低予算さえも逆手に取って、野蛮で土と泥にまみれた西部を描いたイタリア製西部劇は、後の西部劇がリアル路線に舵を切るきっかけとなったものである。

登場人物の振る舞いや服装が、西部劇の歴史を反映している以外にも、「ランゴ」は西部劇のみならず、フィクションとは何であるか、物語はどのように成り立つものであるかをメタ視点から語る構成になっています。

物語の基本構造とは以下のようなものです。
①楽園追放→②放浪→③試練→④象徴的な死→⑤世界を救う鍵の入手→⑥復活・現世への帰還→⑦世界の刷新

一見完璧な世界、完結した閉じられた世界(これは平穏だが代わり映えのしない日常のメタファーでもある)に暮らしている主人公が、何らかのきっかけで暮らしていた世界から出て、死の危険がある外部に旅立ち、困難に遭遇して象徴的な死を迎え、新たな活力を得て復活する、復活の過程で困難を乗り越える力を得た主人公が現世に帰還することによって、それまで閉息していた世界は新たな風を吹き込まれて息を吹き返す。

世界中の英雄神話の基本形は上記の形である、そしてこの展開は、個人の成長過程を象徴化したものであり、同時に家族形成のあり方、さらには社会改革のあり方を示したものである。社会の改変手順を象徴的に示すこと、個人の人格的成長の道筋を示すこと、それこそが神話・物語・フィクションの果たしてきた役割である・・・、というのがジョーゼフ・キャンベルの著書「千の顔を持つ英雄」での主張であり、この本は多くの作家に影響を与えてきました。「スター・ウォーズ」もこの書籍に示された物語理論に従って作られたとのことです。文庫の帯にもそう書いてありますから本当です。

「ランゴ」もまた、上記の物語構造を忠実になぞっています。
何しろ登場人物が「道を渡るというのはメタファー」とわざわざ述べているのです。神話の世界において、象徴的な死は、境界線を乗り越える行為に仮託して描かれます。川を渡ることであったり、洞窟に入ることであったり、橋を渡ることであったり、あるいは怪物に丸飲みされることであったり。そしてもちろん、道を横断することも、この世とあの世を区切る境界線を越えることの象徴としてしばしば使われるモチーフです。

神話・物語・フィクションにおいては、世界を分断している境界線を越えることをもって疑似的な死を表現し、境界線の向こうから帰還することをもって、復活を遂げることを象徴的に表しています。ちなみに多くの場合、境界線には主人公に試練を与える番人が立っていたり、あるいは主人公に試練の内容を教える案内人が立っています。まあ、スフィンクスみたいに座っているということもありますが・・・。

「ランゴ」は、英雄物語の構造に自覚的な作劇をしています。道を渡った先で主人公は西部の精霊に会い、“英雄になるには何が必要であるか”の教えを受けるのです。境界線の向こうで教えを受けた主人公が、世界を変える鍵を得て現世に帰還する、まさしく英雄物語の構造をなぞった作りになっているのです。

これを個人の人格的成長の道筋として読み解くと、社会に出る前に先達から教えを受けて鍛えられ、子供時代あるいは過去の自我との決別を体験し、新たな自我を得て成長・復活することを表現するものです。

このように、物語の構造に言及しつつその物語を語る複雑なメタ視点を持ちながらも、ヘナチョコ主人公のドタバタ成長劇であることから、あくまでも見た目はコミカルに作られています。

構造がおもしろいだけではなく、ディテールも良いものです。「名前のない男って役名なんです」と自己紹介する主人公(西部劇に名を残す最強キャラに「名無しの男」が居るのだ!)、西部の精霊が出オチ、悪役の蛇がリー・ヴァン・クリーフ似、などなど西部劇好きなら気付く数々の仕掛けが盛り込まれています。おそらくは、「スター・ウォーズ」や「マッドマックス2」を元にしたような場面もあります。

普通の西部劇ならダイナマイトを使う所を水しぶきで表現する(「クイック・アンド・デッド」でもそっくりな場面がありました)ことに象徴されるように、乾燥しきった過酷な荒野をユーモア(humor)に満ちて描く、真逆の要素を一つにまとめ上げた映画「ランゴ」。一風変わった西部劇を見たくてたまらないそこのアナタにお勧め致します。