無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

紹鴎様とお呼び「利休にたずねよ」

しばらく前のことになるのですが、この映画を劇場で観たのです。市川海老蔵千利休役と聞いて、劇場に駆けつけたのです。利休の死に隠された謎がうんたらかんたら~、というのがキャッチコピーで、海老蔵が主演。これには期待いたしました。
 
史実として、利休が秀吉によって切腹を命じられた背景は詳細が明らかになっていないのです。挙げられた罪状は「ゴミクズのような茶器に高値を付けて売りさばいた」「秀吉が通る門の上に、利休の木像を置いたのは無礼である」「秀吉に茶壺を献上しなかった」など、いずれも言いがかりのようなものであって、利休が死罪となった理由は、歴史上のミステリーとして今でも残されているわけです。
 
で、海老蔵が主演です。ということはですよ、“灰入れを酒器であると言い張って秀吉に酒を飲ませようとする”くらいの暴挙を演ってくれるのだきっとそうにちがいないと期待していたのですが、そんなことはありませんでした(当たり前だ)。それよりも後半、韓流恋愛ドラマになることの方に吃驚いたしました。いやはや全く予想外でしたので。
 
観た後に思ったことは色々御座います。
考えますに、利休を最強キャラと設定しているためか、他の登場人物を貶め過ぎのご様子です。
 
利休の高弟、山上宗二の性格が幼すぎないか?とか。映画の様子では“秀吉に対しムキになって言い返す小坊主”といった風情でした。一方、彼の著した「山上宗二記」から見ると、単に利休を崇拝しているだけではなく、敬意を持ちながらも師匠に対する懸念も表明しており、性格も嫌味な罵倒芸が持ち味の評論家のような印象を受けました。ちなみに、山上宗二は利休が師匠から独立する際に引き抜いてきた同門の弟弟子であるという説もあり、詰まるところ年輩です。映画版では年齢も性格も幼すぎる気がします。
 
秀吉についても、愚かで人望のない暴君としか描かれていませんでした。原作には有った、北野大茶湯で見せた秀吉の才能に利休が気が付く場面が削られています。秀吉は誰よりも賢く立ち回っているが、いざとなればいくらでも自分を愚か者に見せかけることが出来る、それほどまでに頭が良い。目的のためなら他人から軽んじられることを厭わない性格。相手の緊張を解き懐に入り込み、心の底から笑わせることの出来る人柄。これらはどうしても利休には真似出来ないことだった、・・・という、秀吉強キャラ理論が映画では削られています。これも、利休を持ち上げるには、周囲を雑魚キャラで囲む必要があったためと推測されます。
 
さらに、秀吉によって追放される古渓和尚が、仏教における三毒、人間の煩悩・諸悪の3つの根元「貪・瞋・痴」(むさぼり・にくしみ・おろかさ)のうち、秀吉はむさぼりの罪を犯している、と述べている場面があります。ここまでは映画も原作も同じです。しかしながら、その後が肝心でして、原作の古渓和尚は、秀吉の支配欲と信長の支配欲を比べ、一旦は”信長の方が気品があるから信長の支配欲はまだマシ”という結論に達しかけるも、”強欲の善悪は気品のあるなしに関係は無い”と気づき、さらに”利休の持つ美意識も根元は支配欲と同じなのではないか?”という所まで考えを進めていきます。つまり、利休と信長そして秀吉の三人はそれぞれ同じ欲望に突き動かされており、同じ穴の狢である。そして同じ欲望によって動いているが故に、いずれは互いに蹴落とし合う中になることを予感させているのです。・・・が、映画版では秀吉を悪く言うだけの場面となっています。これはまあ、登場人物の思考過程を映像で描くのが難しい以上、省略せざるを得なかったのかもしれません。しかしながら、結果的に利休をヨイショするために他の登場人物を貶めるだけの場面になってしまっています。
 
では、観るべき所は無いのかと聞かれれば、そんなことはありません。何を観るべきか?エビゾーです。これは、海老蔵を観るためのアイドル映画なのです。
 
もちろん、どうにもこうにも海老蔵は老成した利休には見えません。精進の足りない手前には、老けメイクをした海老蔵にしか見えませんでした。しかし一方で、若い頃の利休を演じるときの海老蔵は、まさしく若い頃の利休はこういう人物なのだろうと思わせるものでした。
 
飲み屋でさんざん遊び惚けたあげくスッテンテンになって蹴り出され出禁を食らう海老蔵利休、ベロベロに酔い潰れるまで親の金で飲んだくれ勘当手前になる海老蔵利休、自分の才能があれば流行のわび茶の世界ですぐにでも成り上がってみせらあと啖呵を切る海老蔵利休。何という役作り、まさにメソッド演技の鑑!
 
そもそも、利休がわび茶の大成者だからといって、無欲恬淡な落ち着いた人物なわけがないのです。武将の財産である美術品の価値判断を任されたいわば会計役であり、さらにその筆頭である。権力者に次々取り入り、商人でありながら石高を与えられ屋敷まで与えられていたという破格の待遇まで登り詰めている。これは相当の野心と功名心がなければ出来ないことです。
 
利休の実家はそれなりに裕福ではありますが新興の商家であり、同じく信長・秀吉に仕えた茶人の津田宗及や今井宗久の家と比べると、財力でも格でも劣っていた模様です。しかし、利休の実家は魚問屋であります。海産物を扱うということは、乾物や塩も扱うことでしょう。保存食や塩といったものは、戦国時代においては戦略物資だったのです。一説によれば信長のために武器弾薬の調達も行っていたと言われています。従いまして、利休は死の商人なのであります。
 
死の商人の跡継ぎであり、エネルギッシュで才覚溢れ、才能を鼻にかけた飲んだくれで遊び人のボン。ここまでくればお分かりでしょう、利休はアイアンマンことトニー・スタークなのです。
 
さらに見所を紹介しますと、アイアンマン利休についてのメソッド演技をも超える、さらに強烈なキャラクターが一人残っているのです。
 
千利休の師匠、武野紹鴎海老蔵の父、十二代目市川團十郎が演じています。
歴史上において武野紹鴎は、“利休によって乗り越えられた師匠”“利休より前の世代にとっては茶の湯の権威であった人物”という扱いなのです。一方、映画「利休にたずねよ」に登場する紹鴎は、“利休が初めて会った底知れない人物”として、利休が超えるべき壁として圧倒的な存在感を放っているのです。
 
人の命と茶壺を比べ、茶壺より美しい人だったらそっちの方が価値ありますけどねと断言してしまう紹鴎。権力も財力も教養も知性もあって穏和に見えるけど、この人頭おかs・・・、という強烈なカリスマを演じています。しかも、パンフレットによると「紹鴎のお茶というものが、どなたに聞いても良くわからなかったのですね。ですから私なりの紹鴎のお茶を演らせて頂きました。」と、このキャラクター造形は十二代目が演技に当たって作り上げたものであることを語っています。
 
物語の前半から中盤まで、晩年の利休を海老蔵が演じているのを見ていると、“本人にカリスマがあるかどうかと、思想や生き方にカリスマがあるというのは違うことなのでは?”“当人の美しさと所作の美しさは別物だよなあ”などという雑音が手前の頭蓋の中を去来していたのです。
 
しかし終盤、武野紹鴎と若き利休が対面する場面、才能はあるが鼻っ柱の強い若造が初めて他人に対し尊敬にも似た感情を生じた場面、ここで登場人物の放つ雰囲気がガラリと変わりました。これこそが見所であります。
 
設定上利休こそが最強キャラである映画にも関わらず、若い頃の実らなかった恋愛にこだわってメソメソしている主人公よりも、人の世の道理をぶっちぎって生きている師匠の方が上手に見えてしまうのは欠点かも知れません。が、弟子と師匠の出会いを描いた、利休ライジングの一連の流れは見る価値ありです。それで充分ですよ、ええ。
 
若い頃の利休を海老蔵、晩年の利休を十二代目團十郎が演じていれば、利休とはきっとこういう人物に見えたのであろう、という姿を映像に残すことが出来たのかも知れません。当時の健康状態から、無理だったことは判りますが、仮にこの映画が三年早く作られていればあるいは・・・。
 
そうそう、キャッチコピーにあった、利休の死の謎がうんたらかんたら~、という話についてですけれども、利休が歴史上どういった役割を果たした人物なのかを知るには、二時間前後という時間制限がある映画よりも書籍の方が良いかと思います。
 
手に入りやすい本と致しましては、歌の形で茶の湯の心がけを示した「利休百首」、江戸時代初期の茶人の記録から交友関係をを纏めた「小堀遠州茶友録」、一期一会という言葉の元となった「茶話一会集」などがございますな。
 
入門編としてのオススメは、岡倉天心が明治時代に外国人向けに日本の茶の湯を紹介した本、つまり異文化に紹介するわけでありますから現代人に対する茶道の解説としてもお役立ちの「茶の本」、数々の伝説によって偶像化された利休像に対して歴史資料から検証していく楽しみを味わいたいのであれば「千利休の「わび」とは何か」あたりがよろしいかと。