無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

行け!のぼう様『花戦さ』

観て参りました『花戦さ』。『のぼうの城』に続いて今回も野村萬斎豊臣秀吉に楯突く映画でございます。
 
野村萬斎が演じますのは、『のぼうの城』と同じくのぼう様。とはいえ今回は木偶の坊ならぬ、いけのぼう(池坊)様。華道池坊流の開祖とされる池坊専好を演じてらっしゃいます。
 
キャラクターとしても、まあ大体は成田長親a.k.a.のぼう様と似たようなもんです。極端にお人好しで危なっかしいので、こりゃあ放っておけないわいとかえって部下に慕われている一見頼りないリーダー。でも本当に危ないときは気骨を見せますよってな、そんな人物造形です。
 
とはいえ、木偶の坊様こと『のぼうの城』の成田長親と『花戦さ』の池坊専好には、はっきりと違いがございます。
 
明らかにいけのぼう様は、社会生活を送る上で深刻な弱点を負った人物として描かれているのです。
 
いけのぼう様の得意なこと、不得手なことを確認してみましょう。
得意なこと。色彩感覚と空間把握の能力が高く、花を活ける事に驚異的な才能を顕し、経を一心不乱に唱えたりすることからリズミカルな繰り返し行動は得意なことが読みとれます。
 
次に、不得意なことを確認いたします。他人の発言の裏を読むことが苦手、注意力が散漫、物事の優先順位がつけられない、作品の制作意図を聞かれると擬音語で答えてしまう。
何より、劇中繰り返されている描写として、人の顔を全く覚えられないことが前面に打ち出されています。何度会っても相手の顔と名前を覚えることが出来ない人、と設定されているのです。
 
簡潔に申し上げます、この映画の池坊様は、自閉症スペクトラムの人として描写されているのです。
 
花戦さ』には、もう一人芸術家肌の人物が登場しますが、こちらも当初深刻なトラウマ持ちという設定が付与されております。
 
利休にたずねよ』といい『花戦さ』といい、トラウマや障がいを得たことによって創作活動の才能が開花するというのは一種のクリシェですが、そういった理由付けが却ってキャラクターの掘り下げを妨げている気もいたします。
 
それでも、この映画に見所は多うございます。
秀吉に無理難題をふっかけられて、殺る気に満ちた眼で「もう一服いかがでございますか」と返す、佐藤浩市演じる利休がおっかない。何より一番の見所は、登場する生け花。物語上で池坊専好が当時の常識からはみ出た人物であったことがありありと判る、豪快で奇抜な作りでした。
猿と呼ばれる度に激怒する秀吉を演じているのが市川「猿」之助、というのは笑い所でしょうか。
 
とはいえ一見駄目人間だが実は底知れない人物かもしれないキャラクター、あるいは掴み所のないミステリアスな役、を演じる事が出来る野村萬斎に対し、生理学的に解釈できる範囲の動機で行動するキャラクターを与えるのは、繰り返しになりますが登場人物の深みをテンプレで薄める役にしか立っていない気がいたします。
 
テンプレートついでにもう一つ。
この映画は『のぼうの城』と同じジャンルであることが、ラストシーンで明らかになるのです。
物語の序盤で登場したあるキャラクターが、ラストに再登場致します。再登場の仕方が、とあるジャンル映画のお約束を踏まえているのです。
 
そのキャラクターとは「犬」。
 
序盤で登場した犬が、ラストにもう一回画面を横切って無事な姿を見せるのはディザスター映画のお約束です。水攻めを水害のように描いた『のぼうの城』が、ディザスター映画の描写を取り入れているのと同様、『花戦さ』は豊臣秀吉という災害を生き延びたものの姿を描く災害映画である。
 
のぼうの城』『花戦さ』はディザスター映画であるというのが、手前の見立てでございます。