無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

惜しい、押井くない。『ゴースト・イン・ザ・シェル』

正直驚きでした。台詞の文末が「バカヤロウ」「コノヤロウ」でないビートたけしを映画館で見ると、これほど違和感があるとは。

冗談はさておき、この映画の原作は・・・、えーとどちらがメインの素材であるのか推し測り難いのですが、士郎正宗の漫画もしくはそれのアニメ化(特に有名なのが押井守監督版)まあとにかくどちらかの『攻殻機動隊』を原案に作られた実写映画であります。

漫画とアニメのどちらに題を取ったかはともかく、何をやりたかったのかは有る程度見当が付きます。と申しますのも『攻殻機動隊』は00年代初頭にはジェームズ・キャメロンが映画化を希望しているという噂があり、あるいは『マトリックス』のビジュアル面での元ネタの一つとして有名になったこともあり、その手のメディアに取り上げられる機会も増えたものであるからです。

しかしながら、『マトリックス』のデザインの原型となった話を今更実写化しても、15年遅れの何匹目かの泥鰌にしかならないのではないか、そう懸念しつつ手前は劇場に向かったのであります。

観ていて気が付いた事としては、士郎正宗版、押井守版どちらから題材を引っ張ってきたにしろ、それら過去作の持っていたフェティシズムが実写版では巧く抽出されていないように見受けられました。

押井守版の『攻殻』がフェティシズムを扱っていることは、言うまでも無いことでしょう。特に劇場版2作目『イノセンス』で顕著で、“無生物が一瞬だけ生き物らしい仕草をする”あるいは“人間に似せて作られた機械が壊れて、人体とは異なる構造を露出する”これらの場面で繰り返される、人間と機械の間が一瞬揺らぐ不穏さ、あるいは逆に不気味の谷が現れる瞬間を見てしまったようなぞわぞわした感覚、それら居心地の悪さの快楽が実写版にはありませんでした。

多脚戦車の装甲を引き剥がすため全力を振り絞り、機械化した身体が自壊する少佐の姿はアニメ版と同じく実写版でも描かれています。しかし、絵面の再現はされていても、“人間の脳を搭載した機械の身体が、機械としての内部構造を露出する”というどこか背徳的なあの感じが、今回の映画にはないのです。

原因は何でしょうね。

手前思いますに、少佐は脳以外は機械に置き換えており、その容姿は他人からの印象をコントロールするためにデザインされたものです。したがって、少佐の美貌は、いわば精巧な生き人形(マネキン)の美しさに基づくものなのです。今回の実写版にはその視点が欠けていたのではないか、過度に主人公の人間性を強調した結果、人間らしさの喪失を通じて逆説的に人間を描くサイバーパンクのジャンルの旨味を消してしまったのではないか。

確かに、『アベンジャーズ』『ルーシー』他数々のアクション映画で主演又は主演級の役で実績を積んでおり、超人的な力を持ったヒロイン像という点ではスカーレット・ヨハンソンが適任でしょう。演技力だって申し分有りません、『マッチポイント』では、かのウディ・アレン監督のミューズとして堂々たる存在感を示し、『ブーリン家の姉妹』『真珠の耳飾りの少女』などでの歴史物でも確かな演技力を披露しています。さらに、『アンダー・ザ・スキン 種の補食』では、人間の皮を被った怪物の役を演じており、人間以外の者/人間以上の者としてのサイボーグを演じるのにこれ以上の演技キャリアはちょっと考えつきません。

実際、ヨハンソンの少佐はポスターなどを見ると、再現度は高そうに思えるのです。
しかしながら、映像として動いているところを見ると、何かが違う気が致します。

・・・そこのアナタ「フォトショ」とか「肩から上だけ」とか失礼なこと言わないように。

考えてみますと、スカーレット・ヨハンソンのキャラクターの魅力は、存在の生々しさにあるのです。『マッチポイント』もそうですし、『ブーリン家の姉妹』では作り物のような堅苦しい姉(演じたのはナタリー・ポートマン)と対置されていることからも判るように、人形っぽさとは逆の個性の持ち主です。前述の『種の補食』も、行動原理が生物としての補食本能であるキャラクターとなります。以上のように、『攻殻機動隊』漫画版アニメ版の内包する、動く人形に対するフェティシズムとはそもそも方向性が逆のキャスティングであると思えてなりません。

では誰が適任かと申しますと、えーとそうですね、工学的に作られた美貌ということですから、お直しの工事を経た改造人間さんから演者を選ぶのが良いのではないでしょうか。

・・・冗談はさておき、本文の始めの方にて手前、「何をやりたかったのかは有る程度見当が付く」と申しておりましたが、実際観ていくとその見当が外れていることに気付かされたのです。

いくらCGや特撮の技術が上がっていても、アクションの間とか演出などは、マトリックス以前、90年代中盤の映画のテンポなのです。何か全体的にモッサリしているのです。劇中のテクノロジーについても、原案となった士郎正宗氏の漫画が1989年の作品だということが言い訳にならないくらい、実写版の描写は古臭いのです。

2004年に公開された『イノセンス』その他アニメ版や押井守監督映画からの引用があることから、“あえて89年版に合わせました”という訳でもなさそうです。

ところで、仮にアナタが『攻殻機動隊』に登場する光学迷彩を実写で映像化するよう指示された場合、特殊効果のスタッフにどう説明します?一番安易で工夫のない説明は『プレデター』みたいな感じに作って、ですよね。今回の実写版、まさに“『プレデター』みたいな感じで作って”と説明したかのような描写になっておるのですよ。ちなみに『プレデター』は、1987年の映画です。

先ほど手前、90年代中盤の映画のテンポと申しましたが、近い印象の映画を挙げるとすればそうですね『JM』あたりが該当しますでしょうか、技術の描写といい、アクションの描き方の間合いといい、物語のペース配分といい。ああそう言えば、北野武が出演しているサイバーパンク映画、という共通点もありますね。

終盤まで観て気が付いたのです。『ロボコップ』だ、この話。「君、名前は?」「マーフィ・・・、じゃなくてモトコ。」、そんな感じ。いやはやこれにはドギモ抜かれましたよ。『マトリックス』の何番煎じかと思っていたら、物語が進む度にみるみる演出が古くなって、終盤は『ロボコップ』。

この古臭さは、やろうと思って出来るものではないように存じます。

スタローン版『ジャッジ・ドレッド』をお許しになれる心の広いアナタであれば、それなりに楽しく御照覧頂けるのではあるまいか。