無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

007 スペクター

港のヨーコ 横浜スペクター
そういう映画です。

何を言っているのか判らないと思いますので、説明させてください。
 
まずは、この映画を撮った監督の傾向から述べて参ります。
 
1、監督の傾向:鏡像と家族と逆光
『スペクター』を撮ったサム・メンデス監督の映画について調べてみると、三つの傾向が見えてきます。
 
①主人公には対になる存在がいる
②対になる人物は、一種の家族といえる関係に配置されている
③逆光は死者の暗示である
 
丁度、『スペクター』でボンドを演じているダニエル・クレイグが出演している『ロード・トゥ・パーディション』。この作品では、特にその傾向が強いのです。
マフィアというファミリー(=一家)と、血の繋がったファミリー(=家庭)が対になっており、
ボスから全く信頼されていないドラ息子(ダニエル・クレイグ)と、ファミリーの中で誰よりも信頼されている部下(トム・ハンクス)が対になっています。
このように、家族、ファミリーとその中の人間関係が、それぞれ鏡写しの像として提示されていました。

さらに、登場人物が対になっていることを暗示するかのように、登場人物が殺し合う(対立しあう)場面では、鏡やガラスに映った影などの鏡像が使われているのです。
もう一つ、姿が特定できない逆光で現れる者は、死の世界からやってきた者、おぼろげな影、幽霊、既に死んでいる者、死を覚悟した者、の象徴である、と『ロード・トゥ・パーディション』の音声解説で述べられていました。
つまり、この監督の癖として、家族と鏡像と逆光にこだわりがあることが判ってきます。
 
余談ですが、『ロード・トゥ・パーディション』に対するeiga.comのアンケートコーナーがなかなかユニークであったことを覚えております。
えーと確か、“『ロード・トゥ・パーディション』感想は次のうちどれ? A:映像がスタイリッシュ!話もサイコー! B:映像がスタイリッシュ!話はまあまあ。 C:映像がスタイリッシュ!話はイマイチ D:映像がスタイリッシュ!画面が暗くて話がよく分からなかった。”
 
話が逸れてしまいましたが、いずれにせよ、サム・メンデス監督の映画では、登場人物はそれぞれ対になって配置される傾向があることを、ここで述べておきます。
 
『スペクター』には、ヒロインが2人いる。そしてその組み合わせは、モニカ・ベルッチとレア・セドゥではない、ということを手前強く主張したい。強く主張したいのです。
 
2、主人公のアクション:NO パルクール YES スラップスティック
ボンドのキャラクターとして、“コミカル”というのが、重要な部分なのではないか、手前以前からそう思っていたのです。
どれほど周囲で悲惨なことが起こっていても、慌てず騒がずあくまで冷静に、余裕綽々とした雰囲気を纏ったクールなスパイ。ところがあまりに冷静さが行き過ぎているが故に生じる、どこかコメディ調な様子があった気がするのです。
そもそも、登場人物の名前が駄洒落で、艶笑小咄のようなオチで終わる映画がシリアスなはずないではありませんか。
 
そう、ダニエル・クレイグが主演になった『カジノ・ロワイアル』よりも前のボンドには、かなりコミカルな雰囲気がありました。
ダイ・アナザー・デイ』で、崖っぷちの鐘楼の綱に掴まって危うく命拾いしたボンド。綱にぶら下がって振り子のように揺れ、ゴーンゴーンと鐘が鳴る。そして一言、「ついてた」。
ゴールデンアイ』では、戦車を強奪し街を破壊しながら走るボンド。周囲を瓦礫に変えつつ、「ちょっと御免なさいよ」の一言で、淡々と走り去っていく不条理コントのような雰囲気を纏ったボンド。
 
さて今回の『スペクター』では、冒頭のアクションからして、サイレント時代のコメディ映画のアクションを強く意識していることが見て取れます。
表情を変えることもなくビルの屋根をヒョイヒョイと駆け抜け、バスター・キートンの映画を再現するごとく、建物が丸ごと自分の方に倒れてくる。『ハロルド・ロイド要心無用』のごとく宙吊りになり、掴まっていた手すりがポッキリ折れて転落するも、ソファの上に腰掛ける形で着地。まだ手すりの金具を握りしめていたことに気づき「やれやれ」という表情で金具を投げ捨てるボンド。これはもう、スラップスティックコメディのノリです。
 
オープニングの高所アクションからしても、これまでのダニエル・クレイグ:ボンドのパルクールから、サイレント映画の時代のスラップスティックに動きを置き換えているのです。
往年の、コミカルな雰囲気を再現しようという意気込みが、これだけでも分かるではありませんか。
 
これまでダニエル・クレイグの演じたボンドは、いわば修行中のボンドでした。ジェームズ・ボンドが成長して、みんなが知っているあのボンドというキャラクターになるまでの課程を描いた映画が、『カジノ・ロワイアル』『慰めの報酬』『スカイフォール』の三作です。
そこでのボンドの動きは、旧シリーズよりも実戦的で、パルクールなどの現代的なアクションを取り入れ、傷ついてボロボロになりながらも歯を食いしばって戦う姿を描くものでした。
 
一方、『スペクター』のボンドはそれよりもグッと、旧シリーズのキャラクターに近づけてきています。
全く実用的ではない動きで、サイレントコメディの古典的な動きを取り入れ、怪我一つ負わず飄々と危機を乗り越えるボンドの姿を描いています。
修行中のボンドは現代的なアクション映画の動きを取り入れ、修行を終えたボンドは古典的なアクション映画の動きを取り入れる。『スカイフォール』『スペクター』が対になっていることが冒頭からも判るのです。
 
3、ヒロインの行動:どうしてヒロインが毎回悪役に捕まるのは何故
現代的なヒロイン・・・、この言い方が正しいとは到底思えないのですが、現代的なヒロイン像について、こういうことを言う方がいるわけです。
 
”007シリーズの最新作、すっごく良い映画なのよ!だってほら、ヒロインが良いの!007って、ボンドガールとか言って、毎回にぎやかしのお姉ちゃんがでてくるじゃない。中身カラッポな、助けられるのを待ってるお姫様みたいな。でも、今回のヒロインは違うの。全ッ然、違うんです!まず、自立したインテリなの。銃の扱いにも慣れていて、格闘も出来る。今のヒロインはボンドに助けられるのを待ってるわけじゃないのよ、自立した強い女性なの。自分で身を守ることが出来るのよ。それどころか、ボンドを助けたりもするの!でも、ワケあって、ボンドのことを憎んでいるの。いがみ合う二人が列車で旅するうちに・・・、ここから先は言えないわッ!何よ、アンタまだそこにいたの?早く劇場に観に行きなさいよ!おすぎです!”
 
しかし、手前は前々から思っていたことがございます。
自立した強いヒロインって、自分から捕まりに行っているんじゃないかってくらい、人質になる率が高いですよね。
皆さんも、不思議に思っていたはずです。
優秀な捜査官であるはずのヒロインが、やたら連続殺人犯に捕まることを。敏腕記者であるはずのヒロインが、主人公の足手纏いにしかならず、やたらとマフィアの人質になることを。あるいは、危険な遺跡の調査に挑む天才考古学者であるはずのヒロインが、押してはいけないスイッチを押し、触ってはいけないレバーにぶつかり、罠という罠を片っ端から作動させ、挙げ句の果てにライバル考古学者に捕まってしまうことを。
 
 
何故、ヒロインはいつも敵に捕まるのか?何故つも主人公の足を引っ張るのか?
それがヒロインの役割だからです。
物語上、ヒロインの役割は2つあります。
メインの役割としては、主人公に動機を与えること。
サブの役割は、主人公に試練を与えること、となります。
「捕まる」=「主人公に動機を与える」と言い換え、動機を与えるのが物語上のヒロインの役割と定義すると、ヒロインの役割を担わされるのは女性に限ったものではないことが分かってきます。
特に有名な男性ヒロインの例を挙げると、『西遊記』における三蔵法師。彼は物語上ヒロインの役を負っていると言えましょう。
主人公である斉天大聖孫悟空に、天竺まで旅をする動機を与え、妖怪に捕まることで主人公に戦う動機を与え、熱病で倒れることで薬草を探す動機を与えるのです。
 
そしてまた、動機を与えるということは、主人公に試練を与える役割でもある。
ここで、ヒロインと悪役の役割に、重複が見られるのです。
 
4、悪役の動機:主人公の鏡像としての悪役
サム・メンデス監督の『スカイフォール』『スペクター』いずれも、悪役が主人公の鏡像でした。
主人公成長編3作の締めとなる『スカイフォール』の悪役は、主人公が道を踏み外した未来の姿、“お前もいずれ墜ちてこうなるのだ”という自己の鏡像との戦いとなっていました。
 
主人公が成長過程の場合、悪役は主人公の成長に伴う通過儀礼、言い換えれば乗り越えるべき未来の自己像というのが定石です。例えば、師匠を殺して秘伝書を奪い出奔した兄弟子と戦う主人公、権力欲にとりつかれ家族を顧みない父親と対峙する主人公、そういった物語は数多くあるではありませんか。
 
もし、成長に伴う試練を乗り越えることが出来ないままでいたらこうなってしまう姿、を悪役は纏っているものである。言い換えれば、成長途中の主人公が出会う悪役は未来の自己像なのであります。
 
では、主人公が成長し切ってしまったら、キャラクターとして完成してしまったら、鏡像となる悪役は何者であるのか?
 
おそらくそれは、ケリを付けなければならない過去、成長するときに切り捨ててきた過ち、そういったものの象徴が、主人公の鏡像となるのでしょう。例えば、かつて助けられなかった仲間が生き延びていて自分への復讐を謀っている、あるいは誤った道に進んでしまった弟子が自分に挑んでくる、家庭を顧みなかった主人公が自分の子供と向き合わなければならない日がやってくる、そういった物語は数多くあるではありませんか。
成長し切っていて、後は物語を終えるだけとなった主人公が、物語を終えるまでに片づけておかねばならない、自己というキャラクターが切り捨ててきた諸々、成長する前の自分を悪役に据えることになるのです。
 
したがいまして、主人公が成長途中であれ、キャラクターが確立している場合であれ、乗り越えるべき自己の姿をとって苦難を与えるのが悪役のお仕事である。とここで述べておきます。
 
5、ヒロインの鏡像としての悪役
丁度、ヒロインの役割と対になるように、
悪役のメインの役割は、主人公に試練を与えることである。
サブの役割として、主人公に動機を与えることである。
と纏めることができます。
 
さて、前作『スカイフォール』の悪役は、あり得るかもしれないボンドの未来の姿でした。
一方、『スペクター』では、ボンドの子供時代に遡って、過去に動機を持つ悪役が現れるのです。
そう、一応は成長し切ったボンドに対する鏡像としての悪役は、ボンドの少年時代に動機を得た者なのです。
 
子供の頃、実子の自分より、養子のボンドを大切にする父親を憎み、父親を殺し、自らの死を偽装し、ボンドへの復讐を暖め続けていた悪党、それが今回の悪役です。
しかし、それだけではどうにも割り切れないものが、今回の悪役には残るのです。
父親が自分を構ってくれなかったから親殺しをする。ここまでは判ります。
父親に可愛がられていた義弟を憎む、これもまあ、判ります。
それでも、世界規模の秘密組織を作り、数十年に渡ってボンドの挙動を監視し続けるというのは、尋常ではありません。
 
『スペクター』では、今までの007シリーズの謎、すなわちボンドと恋に落ちた女性が次作では登場しなくなるのは何故か?という長年の疑問に答えをもたらしているのです。
「ボンドが恋に落ちた相手を、スペクターが全て抹殺してきたのだ」というものすごい・・・、
なんだそのえーと、アレだよアレ、後付け設定?そうそう後付け設定、・・・が明かされるのです。
いくら義弟を憎んでるとは言え、ちょっと行き過ぎです。どうかしてます。
 
さて、ここでもう一度考えてみましょう。
ヒロインのメインの役割とサブの役割
メイン:主人公に動機を与えること
サブ :主人公に試練を与えること
 
悪役のメインの役割とサブの役割
メイン:主人公に試練を与えること
サブ :主人公に動機を与えること。
 
ヒロインと悪役もまた、鏡像となっているのです。
 
「それ以上近づいたら、撃つからね!」とか言い出すツンデレヒロイン
「ボンドに近づく奴は、皆殺しにしてやる」とか言い出すヤンデレ悪役
つまりですね、今回の悪役、エルンスト・スタヴロ・ブロフェルドは一種のヒロインではないか、と思うのですよ。
 
もっとはっきり言いますと、
アンタ、ボンドに惚れてるね
港のヨーコ 横浜スペクター
そういう映画なのです。