無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

ターミネーター新起動(ジェニシス):サラ・コナーはツンデレ戦闘ヒロイン

1、あらすじ サラ・コナーはツンデレ戦闘ヒロイン。お義父さんはターミネーター。未来人カイル・リースと三人で、タイムトラベルのせいですっかり複雑化した家庭問題と向き合うのだ。銃とプラスチック爆弾で。

本当なんですって!本当にそういう映画なんですってば!
ターミネーター新起動(ジェニシス)』のサラ・コナーは、タイムマシンで歴史が変わった結果、10代にして対ターミネーター戦闘技術をマスターし、おまけに性格まで変わってしまっているのです。

「勘違いしないでよねっ!」とか「アンタに指図されたくないわね」「ちょっと!それ早く返しなさいよ!」あまつさえ「“合体”って言い方、二度としないで」というセリフまで出てくる始末。

なんだこの角川ラノベ時空・・・。

ターミネーター」1作目の頃のサラ・コナーさんの性格と物語をおさらいしてみましょう。ラブレターが届いてはいないかと、郵便受けを何度も確認するような相当イタい感じの地味女子。彼女の前に現れる謎の男。彼はカイル・リースと名乗り、未来からタイムマシンで送り込まれてきた兵士であると自称している。おまけに、未来で起きる機械と人類との戦争を指導する英雄ジョン・コナーの母、すなわちサラ・コナーを命に代えてでも守るのが使命なのだと言い張っている。さて、この男は自分で言っている通りの人物なのか、それとも周囲の人が言う通り、頭のおかしい危険人物なのか。

文字にしてみると、一作目から十分にラノベですね。

もちろん、5作も映画のシリーズが続いているわけですから、カイル・リースは本当のことを言っており、サラ・コナー暗殺のために送られてきた殺人サイボーグと対決することになるのです。シンデレラストーリーにスラッシャー映画とタイムマシンSFを混ぜた「ターミネーター」の物語の中で、サラ・コナーにとっての白馬の王子様としての役割がカイルに与えられていたわけです。1作目では。

しかし、今回の映画では、物語の開始時点で既にサラ・コナーの方がカイルより圧倒的に強いのです。戦闘力、度胸、対人交渉力、対ターミネーター戦の知識でさえも、サラ・コナーに圧倒的に分があるのです。カイルの勝てるところが背の高さくらいしか思いつきません。か弱いヒロインを守る勇敢な騎士になるはずだったカイル・リースに、同情の念を禁じ得ません。

おまけに、おまけにですよ。
ヒロインのお義父さんがターミネーター

だから本当なんですってば!信じてくださいよ!
さっき言いましたけど、サラ・コナーは『ジェニシス』の設定では、1984年の時点で既に対ターミネーター戦の訓練を積んでいるわけです。じゃあ、彼女を訓練したのは誰?
そう、T-800ことアーノルド・シュワルツネッガー型ターミネーターだったのです。

お義父さんがターミネーター。婚約者の実家に挨拶に行ったら、父親がロバート・デニーロだった「ミート・ザ・ペアレンツ」どころじゃない絶望感です。

2、本当なんですってば!シルバーマン先生!

ターミネーター」シリーズの1~2作目にあった要素として、
“カイル・リースは、妄想にとりつかれた頭のおかしい人ではないのか”←1作目
“もしかして自分は、医者の言う通り救世主妄想の患者なのではないか”←2作目
と、サラ・コナーが悩む場面がありました。

本当に殺人サイボーグが現れるまで、当事者以外の人物にとっては主人公たちこそが危険人物であり、反社会的なヤバい妄想にとりつかれた人に見えているわけです。それどころか、サラ・コナーもその息子ジョン・コナーも、自分でさえ自分の信念を疑ってしまうときがある。
ついにターミネーターが現れて豪快な殺戮を見せることで、それまでの主人公の鬱屈を吹き飛ばすカタルシスが得られる。そういった要素が2作目までの味付けに含まれていました。

『ジェニシス』では、サラ・コナーは自分の正気を疑ったりしません。何しろ、未来からタイムトラベルしてきたサイボーグが常に寄り添っているのです。動かぬ証拠が目の前にあるので疑いようがないのです。
したがって今回の映画では、“妄想にとりつかれたロボット恐怖症の変人”というレッテルを周囲から貼られてしまう役は、脇役に与えられることになります。

サム・ライミ版『スパイダーマン』、“アメイジング”が付かない方のスパイダーマン、で新聞社の編集長を演じた、J・K・シモンズがその役割を担っています。物語上、必然性のないように見える・・・あの程度だったら、サラもカイルも自力で乗り越えられるだろうと言う程度の危機で手助けするキャラでした・・・が、建物とか風景とかで時代をあまり表現していないこの映画において、時間の流れを表す重要な役割を与えらたキャラクターなのです。

バック・トゥ・ザ・フューチャー」のように、1955年と1985年の30年間なら風景に大きな差がでるでしょう。ところが、2017年と1984年を大きく区切るような風景は、少なくとも建物や自動車といった、都市のありようからはあまり見えてこないようです。

もちろん、80年代の方が明らかに治安が悪そうで、革ジャンのモヒカンが歩いている、とか。2017年では道行く人が全員スマホの画面を凝視しながら歩いている、とか。
風景によって、あるいは人々の装いによって時代を描けなかったこの空白の30年において、”昔は髪の毛があった”という身を張ったセリフをもって、時間の流れを表す。これこそが、彼の役割なのです。

3、最後だと言ったが、あれは嘘だ
この映画、エンディングロールが二段構えになっていまして、エンディングロール中盤で「次回に続く・・・かも」というオマケ映像が付いてきます。
何か新たな情報が提示されているわけでもないのですが、エンディングロール前半で帰ってしまうお客さんが4~5割くらいいたので、一応ここに書いておきます。