無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

除夜の鐘と初詣について

手前、毎年この時期になると、ある迷信について考えを巡らせるのです。
それは「日本人は無宗教であり、信仰をもっていない。その証拠に、12月25日にクリスマスを祝い、31日には仏教寺院の鐘の音を聴き、次の日には神社に詣でているではないか。これが何よりの証拠だ。そしてこのように確固たる信仰を持たない国は他に例がない。」という迷信です。
 
日本人(←語弊がありますが、話を簡単にするためこの言い方を使うことをお許し願いたい)は、地域的にある程度共通した土着の信仰を持っているが、それについてはまだ指し示す名称が付けられていない。そのため、信仰の形態を外部から把握することが出来ない。また、外部から日本人の信仰について指摘されることが少ないため、あるいは指摘されても前述の迷信に基づいた言説であるため、自らの信仰の背景について無自覚なままでいる。と手前は考えております。
 
そもそも、大晦日に除夜の鐘を聴き、元旦に初詣に行くのがそんなに奇怪千万な習慣でしょうか?手前はそうは思いません。複数の宗教の行事を取り混ぜて執り行っている例は、世界中に御座います。時として、余りにも当たり前の習慣となっているため、当人も特に意識しないまま複数の異なる宗教に対して一度に祈りを捧げていることも御座います。例えば、クリスマスを12月に祝うもの、モミの木を飾るのも、ツリーの飾り付けをするのも、本来キリスト教と関係のない、欧州土着宗教の習慣です。
 
古代の宗教において、もしくは宗教と名付けられる前の信仰の形態において、生命サイクルの永続性を象徴するモノは、大きく2つあります。一つは、熱帯から温帯にかけて多く見られるもので、脱皮により古い自己の皮を脱ぎ捨てる生き物である蛇(=仮初めの死を超えて新しい生命を得ることの象徴)。一方、蛇の生息数が少ない冷帯から寒帯にかけての地域においては、冬になり他の植物が葉を散らす中でも若々しい新緑を保つ常緑樹(=死の季節を超えて生き延びることの象徴)となり、松やヒイラギ、モミの木がこれに当たります。
 
念のため申し上げておきますが、主キリストがお生まれになったのは、ベツレヘムであります。ベツレヘムは、乾燥した亜熱帯にございます。したがいまして、主の生まれ故郷には誕生日にモミの木を飾る習慣など無かったのであります。
当時のベツレヘムの様子や人々の出で立ちを知りたいのでしたら、『ジーザス・クライスト=スーパースター』『パッション』『モンティパイソン ライフ・オブ・ブライアン』あたりをご覧になってはいかがでしょう。
 
冬に常緑樹を飾り永遠の生命を願うのは、オーディンやソーといった北欧の神々への信仰にちなむものであります。さらに言っておくならば、ツリーに様々な飾りを吊すのは、欧州中部~西部にかけての習俗、護符や呪具を木に吊す儀式に起源を持つものであります。12月25日に教会にツリーを飾る行事は、せいぜい300年かそこらの歴史しか御座いません。信仰の長い歴史からみれば、異教のお祭りを最近になって耶蘇教が取り入れたものにすぎないのであります。
 
12月25日が主キリストの誕生日というのにも、多くの議論が御座います。3月誕生説、4月誕生説、5月説、6月説、7月、8月、9月、10月、11月説、古来から主の誕生日が本当はいつであるのか議論され続けて参りました。では何故、12月25日が主の誕生日であるとされたのか?それは多くの宗教において一年の締めくくりである年末の祭りや、太陽の力が最も弱まる日であり神々からの加護を祈らなければならないとされた冬の祈りの日、等といった各種宗教行事が12月末に集中していたからであります。各種宗教行事が12月に集まっていた、これらの宗教行事を統一し、それらの上位にあることを示すには、誕生日という超ビッグイベントを12月末に設定するのが効果的だったためであります。
 
晦日に仏教寺院の鐘の音を聴き、元旦に神道の神社に向かうのは、無宗教ゆえでは御座いません。北欧の神々を象徴する常緑樹を用意し、中部ヨーロッパの土着の精霊たちに捧げる飾りを括り付け、欧州南部の太陽神の加護を願う冬至の時期に、主キリストの誕生日を祝うのと同じくらいには、敬虔な行為なのです。
 
別の例も挙げておきましょう。カトリック教会の暦では、煉獄で苦しんでいる死者のために祈る「死者の日」が設けられています。ところが、メキシコの「死者の日」は、死んだ人々が現世に帰ってくるのをお迎えする日なのであります。ちなみに、メキシコは統計上、人口の九割近くがカトリックであります。そういった国でも、耶蘇教が普及する以前の信仰に基づいた、死者が現世に帰ってくる日、という祝日を今なお保ち続けているのです。
 
つまるところ、制度上あるいは名目上の国教や信仰があったとしても、従来人々が持っていた信仰や習俗を根絶して成り代わることはきわめて困難であることが判ります。従来から人々が持ち続けていた土着の信仰を、キリスト教の文脈で解釈し、取り入れることでヨーロッパのクリスマスのお祝いは今の形になったわけです。
同様に、古代の日本人が持っていた信仰様式が、仏教や神道とある時は衝突し、またあるときは互いに吸収し合い、なんらかの文脈でもって解釈され築かれてきたものが、大晦日の除夜の鐘と初詣の組み合わせなのでしょう。
 
晦日に仏教寺院の鐘の音を聴き、元旦に神道の神社に向かうのは、世界中の他の地域と見比べてみても、特に変わった習慣では御座いません。また、日本人が宗教に寛容だから二つの宗教のお祝いを取り混ぜて執り行っているというわけでもないようで御座います。