無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

グリーン・ホーネット

グリーン・ホーネットことブリット・リードは悲劇のヒーローである。しかし、それは父親を殺されたという設定上の悲劇に因るものではない。手前斯様に考えております。
 
正直バットマンやスーパーマンと比べるとグリーン・ホーネットは、どちらかというと有名ではない、かもしれないサイドに立っていることを否定しがたい部類に入る可能性が高いヒーローです。いまいちヒーローとしての個性がパンチに欠けるというか、何というか。
 
“親を殺され復讐のため犯罪者を痛めつけて回るヴィジランテ、表の顔は大富豪”と言えばバットマンという大物が居ますし、“アイアンマンのスーツを、スーパーカーに置き換えただけじゃね?”“ローン・レンジャーの現代版でしょ、原作者つながりで”と言われれば、そんな気もします。まあ、何と申しますか、キャラが色々と有名人と被ってしまっているわけです。
 
しかし、グリーン・ホーネットの最大の不幸、かつ最も重要な要素は、相棒がブルース・リーだったことにある、と手前考えております。
 
もう少し詳しく申しますとですね、『グリーン・ホーネット』映画版ではジェイ・チョウが演じている相棒のカトー、この役を1960年代のテレビシリーズではブルース・リーが演じていたのです。そう、あのブルース・リーです。結果、主人公ではなくその相棒が世界的に有名になってしまったのです。
 
グリーン・ホーネットを象徴するキーワードが、「カトーマスク」。鼻から眉の上までを覆う形の黒いマスクで、『キル・ビル』『ブラック・マスク』などでも引用されていました。あのマスクは、「グリーン・ホーネットマスク」ではなく、「カトーマスク」と呼称されています。このように、グリーン・ホーネットは本人ではなく相棒の方が文化的アイコンになってしまった気の毒なヒーローなのです。
 
先頃から何度もカトーカトーと名前を繰り返してきましたが、姓が加藤とすると名前の方は何でしょうか?アメリカのドラマやコミックは設定が変更されることが多いので、今もこの設定が生きているかは手前存じませんが、「カトー・ハヤシ」とされた時期がありました。
 
どっちが姓でどっちが名?混乱しますが、どうやらアメリカ人の言語感覚ではさほどおかしなものでもないらしいのです。そもそも、英語圏の方々から見てもアメリカ人の名前には時折、姓と名の区別が付きにくい名前が見られるのです。
 
例を挙げてみましょう、バットマンの本名はブルース・ウェイン。原作コミックの中で指摘されたこともありますが、姓名どちらがどちらか判らない名前なのです。念のため申しますが、名がブルース、姓がウェイン。ところが、『ブルース・ブラザーズ』の兄弟の名前は、ジェイク&エルウッド・ブルース、したがって姓がブルース。『ウェインズ・ワールド』の主人公はウェイン・キャンベル、名がウェインとなるわけです。このように、英語圏でも特にアメリカは、姓名どちらにどの語句を使うのが妥当であるかの基準が他国と異なっているようです。
 
姓というものはしばしば、祖先が何処に住んでいたか、あるいは代々の職業は何であったかを推測させるものとなります。例えば、スミスさんなら先祖に鍛冶屋が居た可能性が高い、カーペンターさんならおそらく先祖が大工、シューマッハーさんなら靴職人で、キューゲルシュライバーさんならボールペン関係と推測することができるわけです。
 
でもって、アメリカは建国の理念として、領主や貴族の指示ではなく、自分で職業と住む場所を決められる国とする歴史的な背景がある、故に姓名に対して使われる語句に区別を設ける感覚が薄い。という話もありますが、まあどうでしょう。本当のところは存じませんが。まあそんなわけで、アメリカの小説やドラマにはカトー・ハヤシとかヤスシ・キヨシみたいな、どちらが姓でどちらが名かわからない人名が頻出するという話です。
 
話が逸れ申した。物語上も、カトーはグリーン・ホーネットの運転手兼ボディガード、さらに秘密兵器のメカニックでもある。つまり、「ひょっとしてカトーの方がグリーン・ホーネットより優秀なんじゃないか?しかも演じているのがあのブルース・リーだし。」という疑念を持たれ続けてきたキャラクターなのです。
 
映画『グリーンホーネット』では、グリーン・ホーネットことブリット・リードを、カトーの能力に頼っているダメ男として描いてます。現実の側からのツッコミ(実はカトーの方が優秀なんじゃないか仮説)を踏まえて、主人公なのに影が薄いグリーン・ホーネットにクズ野郎という属性を付与して現代に蘇らせたのが2011年版の映画なのです。
 
もう一度繰り返します。グリーン・ホーネットことブリット・リードは悲劇のヒーローである。しかし、それは父親を殺されたという設定上の悲劇に因るものではない。手前斯様に考えております。