無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

一方ソビエトでは鉛筆を使った「スーパーマン:レッド・サン」

あらすじ
アメリカ合衆国では、スーパーマンが悪役から世界を救う。
ソビエトロシアでは、悪役がスーパーマンから世界を救う。

「スーパーマンアメリカではなくソビエト連邦のヒーローだったら」というIFもので、一見すると出オチのネタですが、もしかするとアメコミの傑作かも知れません。
断言しましょう、傑作です。

何故かと申しますと、スーパーヒーローの登場する物語についての数々の疑問、もっと単純な言い回しでいいますと、“ツッコミどころ”についての回答を示しているからで御座います。

そしてもう一つ、「バットマンダークナイト・リターンズ」「バットマンダークナイト・ストライクス・アゲイン」をお読みになった皆様方に強固に植え付けられたであろう“スーパーマンを倒せるのって、バットマンだけなんじゃね?”というイメージを一掃し、再びルーサー様を宿敵の地位に押し上げる一冊となっているのです。

アメリカンコミックについて、この様な事を仰る方々がいらっしゃるわけです。「アメリカのマンガって、“正義の味方が悪者をやっつける”みたいな話ばかりなんでしょ?日本のマンガはもっと洗練されているから、単純なお話で喜べるのは子供向けの絵本読む年齢までだよねー」とか何とか。

そういう輩には、こう言ってやるべきなのさ。“おいおい、今はもう2016年だぜ。君の見方はもう40年は昔の古くさいトレンドだぜトニー。バットマンが青いスーツを着て、シーザー・ロメロがジョーカーだったくらい大昔さ。それとも何かい?君は改造デロリアンに乗って1955年からやって来たってのかい?HAHAHA!”ってね。

冗談はさておき、スーパーヒーローの登場する物語についてのツッコミどころ、とは何であるか、以下に示す事と致しましょう。

まず、一つ目。世界の平和を守るヒーローは何故、目的に対して異様に遠回りな活動をしているのか?具体的に申しますと、スーパーマンが戦争や貧富の格差などの、問題の根元に取り組まずにいるのは何故か?路上強盗の逮捕や火災現場の救助などは、万能の力を持っている存在がすべきことではない。もっとほかに取り組むべき問題があるはずだ!というツッコミです。

その点に関しては、アラン・ムーアフランク・ミラー他複数の作家が1980年代に答を出しております。「もし、スーパーマンのような存在が、本気で世界中の問題を解決しようと乗り出してきた場合、どれほど善意に溢れたものだとしても、体制は必然的にファシズムとなるであろう。ほぼ全知全能で、人類の力では打ち倒すことが適わず、かつ不老不死の絶対権力者が永遠に君臨する世界はディストピアとなるはずだ。」という解です。

よって、一つ目のツッコミどころは以下の問題のバリエーションとして解くことが出来ます。
ブライアン・シンガー監督の映画「X-MEN2」のノベライズでも描かれており、また原作でも何度か言及されている問いでございます。「問い:世界一のテレパスであるエグゼビア教授が、その強力な超能力を使って人々の心を書き換え、ミュータントを差別する感情を奪ってしまえば問題は全て解決するのではないか?」「答え:それは教授の思想信条に大きく反する。人々が自らの意志で考え、学び、決断していくことによって為されたものでない限り、社会の問題は解決し得ない。」

ちなみにこの問題は、スーパーマンやエグゼビア教授が人知を越えた力を持っているから成立する問題なのか?という問いも御座います。では考えてみましょう、スーパーマンではなく、手段を選ばないマキャベリストであるバットマンが本気で世界平和のために活動したら、世界はどうなるか。そのモデルケースが「ウォッチメン」となりましょう。オウルマンだけでなくオジマンディアスもまた、バットマンのモチーフを取り入れたキャラクターでありますが故に。

二つ目のツッコミどころを挙げましょう。
世界征服を企む悪役は何故、目的に対して異様に遠回りな作戦ばかり立てるのか?例えば、スーパーマンの宿敵レックス・ルーサーは、世界一の天才科学者でありながら、毎回毎回悪事を謀んではスーパーマンにぶちのめされて、刑務所に送られています。そして牢を破っては、また毎回毎回懲りずに勝負を挑んで、結局負けるのです。世界一の天才で、世界有数の大企業を経営しているビジネスマンでもあるなら、スーパーマンなんぞ相手にせずに、政治と経済の世界に君臨できるではありませんか。何でスーパーマンに拘ってるんですか?というツッコミです。

もちろん、レックス・ルーサーがビジネスに力を傾け、企業を成長させたり、アメリカ大統領になって政治権力を振るっていたりした時期もあります。その後どうするかというと、手に入れた権力を用いてスーパーマンに挑戦し、・・・以下繰り返し。まあ、ほとんどアンパンマンに対するバイキンマンとか、ドロンボー一味みたいなもんです。

ひょっとして、ぶちのめされるのがシュミなんですかな!HAHAHA!

冗談はさておきまして、悪役がスーパーマンバットマンにしつこく挑戦してくる理由の解釈には、年代ごとに幾つか主要な流派がございます。

もっとも古いのが、“世界征服のためにはスーパーマンが邪魔だから”。とはいえ先程申し上げたとおり、世界一の天才ならスーパーマンと戦ったりせずに正面切って世界を治めればいいのに、という反論は回避できません。”悪の科学者って、そういうものでしょう?”という身も蓋もない切り返しも御座いますが、はっきりこれを言ってしまうと物語のそれ以上の掘り下げは難しくなります。

80年代以降になりますと、バットマンを心理学的に読み解き直す動きがありまして、“悪役はバットマンに引きつけられて集まっているのだ”という見解が強く出て参ります。代表的なところでは、「ダークナイト・リターンズ」その他でジョーカーはバットマンに挑戦すること(だけ)が生き甲斐になっており、勝ち負けは二の次・・・、どころか完全に度外視しています。また、アニメ版のリドラーバットマンを倒したと思いこんだ時点で引退を宣言したことがあります。逆に、一旦は更正した悪役がバットマンに付きまとわれるので・・・、という展開もあります。

レックス・ルーサーもまた、スーパーマンに対する嫉妬ややっかみ、憧れの裏返しといった感情を見せることが時折あります。このように、スーパーヒーローに挑戦して自分の実力を試すことが悪役の目的であるとする見方が急激に挙がってきた時代も御座いました。

さらに2000年以降になると、悪役側も何らかの信念をもってスーパーヒーローに挑戦していたことが明かされる展開となってきます。

「スーパーマン:レッド・サン」は、これらの物語解釈の集大成となっています。それだけではありません、いつものレックス・ルーサーの態度、いつもの行動で進んでいたものが、終盤の展開で一気に意味がひっくり返るのです。今までの、つまり「レッド・サン」以前の、ルーサーの不可解な言動にまで意味付けが出来る、これまで長く続いていた物語の意味を書き換える展開となっているのです。

“世界征服のためにスーパーマンを倒す”ではなく、“スーパーマンを倒すために世界を征服する”に、価値観の大転換が起きたのです。

以降描かれたコミック「スーパーマン:ラスト・サン」でのレックス・ルーサーの行動理由や、善悪が逆転している平行世界からやって来たもう一人のスーパーマンが登場する「JLA:フォーエバー・イービル」での活躍から、どうやら現時点でもルーサーは「レッド・サン」と同様の信念を引き継いだキャラクターとなっている模様です。

バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」においても、後期型の動機によってレックス・ルーサーは動いていました。

近年のレックス・ルーサーがどのような理由でスーパーマンと対立しているか理解するサンプルケースとして、一見際物に見える「スーパーマン:レッド・サン」は重要な一冊だと思うのであります。

え!?そもそもアメコミは全部キワモノ扱いだって?HAHAHA!
こやつめ HAHAHA!