無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

この飯、疎かに食う『マグニフィセント・セブン』

仮にローズ・クリークの牧師が往年のクリント・イーストウッドだったなら、バーソロミュー・ボーグごときの木っ端悪党、上映開始15分で始末を付けていたものと思います。今のイーストウッドでも60分は掛からないでしょう。
 
あるいは、リー・ヴァン・クリーフに仇討ちを依頼していたなら、サクラメントの屋敷に乗り込んでボーグ一味を壊滅させた上、蓄えていた金塊をごっそり奪い取って見せたことでしょう上映時間90分で。
 
冗談はさておき、この映画について改めて説明致しましょう。西部劇の名作『荒野の七人』を原案に作られたものであります。周知の通り『荒野の七人』は時代劇の傑作『七人の侍』を西部劇に翻案したものです。
 
仲間集めも淡々と片付け、アクションシーンも従来の西部劇よりあっさりと処理していました。それでも133分では尺が足りないのか、『マグニフィセント・セブン』には原案となった作品には有った色々なものが無いのです。何が無いのか?以下に述べましょう。
 
「この飯、おろそかには食わんぞ」が無い。
これは、 『七人の侍』において重要な場面です。物語の展開としてはこうです。命がけの戦いに侍を雇うための報酬として提示されたのが“白米の食事”だったことから、主人公は一旦依頼を断る。しかし、野武士の略奪に遭い食事にも事欠くようになった村人が、切り詰めた生活からどうにか集めた最後の財産が米だったことを知り、勘兵衛一行は勝っても何一つ得の無い戦いに全力を尽くすことを決意する。この燃える展開が、『マグニフィセント・セブン』には有りません。
 
それどころか、『マグニフィセント・セブン』の連中は町の人に向かって「豆が足りねえぞ持って来いや!グェハハハ!」「まるで犬の餌だな。」といった、実に非道い有様でございます。
 
もちろん、後の台詞は発言者が先住民族で、欧米式の調理になれていないという設定上の都合というのはありますよ。だとしても、映画の中でキャラクターを描くのは台詞だけじゃあないはずです。特に、食事の時の行動や発言は、その人物が普段どのような行いをしているか、戦ったりキメ顔したり気の利いた台詞を読み上げたりしている以外の日常の所作においてどういう人物であるかを描く重要な場面です。で、その基準に基づいて判断しますと、今回の七人はクズ野郎と推測致します。
 
また、立場の異なる複数の人が食事をする場面は、人間関係を台詞に拠らず描く最高のツールです。にも関わらず、今回の七人は町の住人と関わらないのです。食事を共にする事で仲間としての立場を確かめ合い、一体感が形成されるまでの流れを描く絶好のチャンスであるにも関わらず、食事中は町の人を一切無視。主人公たち七人以外は戦いの悲惨さを描写するための背景です!モブに感情移入しないで下さい!という、とても優しい姿勢が見て取れます。
 
「オイラの父ちゃん弱虫だ!」が無い。
こちらは「荒野の七人」において重要な場面です。「オイラの父ちゃん弱虫だ!」と言い出した村の子供に対して、チャールズ・ブロンソンが叱りつける場面がありました。小さな子供に、本当の勇気とは何であるか説教をかますのです「おまえの父ちゃんを弱虫とか言うな。おじさん達が銃を持っているから勇敢だと思うのか?違う!本当の勇気っていうのはそういうもんじゃないんだ。」。「どんなに辛いことがあっても家族を支え続けるというのは大変なことなんだ。」「その重荷は足が挫けそうになるほどだ。おじさん達はそういう生き方が出来なかった。」とか何とか、とにかくまあ長い台詞で手前もうろ覚えなんですけど。
 
要するにですなあ、『荒野の七人』においても『七人の侍』においても主人公七人は時代に取り残された負け犬なのです。もう間もなく西部開拓が終わろうかという時期に、カウボーイだの賞金稼ぎだの夢物語を追いかけ続けていて、いつか一旗揚げることが出来ると信じたまま年を食ってしまったボンクラ連中であり、あるいは歴戦の古強者と言えば聞こえが良いが、間もなく戦国時代が終わろうという頃になっても仕官するあてのない浪人であったり。
 
何故『荒野の七人』が『七人の侍』が、得にならない戦いに加わっているのか?地に足着けて暮らす人々を助ける為に自分の力を活かす時が遂に来た、つまり本物のヒーローになれる最後のチャンスだと気付いたからです。
 
マグニフィセント・セブン』では、仲間内で戦う動機を語り合うのですが、この場面でもメインキャラ以外は蚊帳の外に置かれています。つまり、人数こそ多いですが、悪役も村人も名前の無いキャラは書き割り背景同然なのです。
 
「勝ったのは百姓たちだ」が無い。
七人の侍』はどこかやりきれない思いが残るラストとなっていました。野武士達が居なくなった後では、むしろ自分たちこそが怖がられる存在になった、と戦いを生き延びた侍たちが気付くのです。弱ささえも処世のため利用し尽くし、しぶとく生きていく農民の強さに侍が気付かされ、結局自分たちは村にとっては余所者だったのだと悟ってしまうのです。
 
戦いが終わった途端村人たちが急に手の平返すのは、黒澤明監督が戦争経験世代で、ある日を境に突然社会の価値観が入れ替わるさまを間近に見ていたことも、多分に影響してございましょう。
 
「あんたたちは大地を吹き抜ける風だ」が無い。
『荒野の七人』は、主人公達が根無し草の風来坊であることをやや好意的に描いているように見えます。映画のラストで長老がガンマン達に語りかけます。“農民は大地と共に生きており、山賊達はイナゴのようなものである。時としてイナゴが大地を覆ってしまうことがある。主人公達はイナゴを追い払う嵐、大地を吹き抜ける風なのだ。”その言葉に背を押され、一行は再び旅に出てエンドロール。
 
追っ払う巧い口実を作ったものです。
 
冗談はさておき、後者の台詞は『荒野の七人』に神話性を持たせることに成功しています。物語の普遍的な基本構造、すなわち神話、において世界を救った英雄はその場を立ち去らなければなりません。何故なら、神話は個人の人格の成長あるいは社会改革の手順を象徴を用いて指し示すものであるためです。
 
もしいつまでも英雄すなわち世界を救える誰かさんが居座っているのなら、解決すべき課題が今も社会に残っていることの説明が付かなくなります。神話が人々に生き方の指針を示す、教育のためのフィクションである以上、英雄は“今の世界の土台を作ったが、今此処には居ない者”でなければならないのです。
 
西部劇の英雄が救った土地を立ち去るのは何故か?「大地を吹き抜ける風になるのだ」良いですね。「続編の都合があるんで」と答えるより、よほど美しい答えではありませんか。
 
「マグニフィセントな魂」が無い。
無私の心で戦いに加わった偉大な魂を持つ7人と言う触れ込みですが、最後まで観終わるとどうにも釈然としないのです。特にリーダー格のデンゼル・ワシントン。口実が出来たのを良い事に、死にたがっている奴、勇敢な依頼人、町を守りたい住人、を巻き込んで殺し合いに放り込んだ卑劣漢なのではないか、という疑問が残るのです。
 
確かに、西部劇の主人公が高潔でなければならないという決まりはありません。むしろ、西部劇の歴史においては卑怯上等な面々が魅力を放っていた事も確かです。しかし、彼らダークヒーローの持ち味は、弱肉強食を正当化する傲慢な悪役に一泡吹かせるための武器として、卑怯さを魅力に変えていたものでした。
 
勝ちさえすればどんな手段でも正当化されると主張する相手の罠に対し、さらに上をいく策略で切り抜け「で、今お前何て言った?」と鮮やかに切り返す。そのようなダークヒーロー、アンチヒーローは西部劇に多くいました、確かに。
 
しかし、敵意を持っていない相手まで捨て駒として扱うのはもはやヒーローの枠をはみ出した何かでしょう。いかに崇高な行為であっても、動機が邪なものであれば、極悪の行いとなりうるのであります。その基準で行けば、デンゼル・ワシントン演じるサム・チザムはバーソロミュー・ボーグの上をいく極悪人です。
 
さて、これまで『七人の侍』『荒野の七人』に有って『マグニフィセント・セブン』にない物ばかりをあげつらってきました。次にすべき事は、『マグニフィセント・セブン』にしかない物は何か、でございましょう。考えてみました。
 
食事に重要性を見いだしていないのは何故か?思いますに、『七人の侍』では野武士の目的が“穀物”であるのに対し、『マグニフィセント・セブン』では“近くの土地で出た金”というあぶく銭であって、直接的に労働の対価を強奪することが悪役の目的ではない、故に「この飯、疎かに食わんぞ」の場面も必要が無くなったのです。
 
では、劇中悪役が町の人から奪った物は何か?土地でしょうか?いいえ違います、土地は“これから奪う”ものです。ボーグが住人から直接的に奪ったものは“教会”つまり信仰の拠り所なのです。
 
そのような見方をしてみると、『マグニフィセント・セブン』では、村人との交流を描いたシーンが、教会に関する場面に集中していることが判ります。
 
村人との一体感を確立するシーン、『七人の侍』で旗印を作り上げる場面に相当するのが、教会の再建シークエンスなのです。あるいは、無謀な戦いに何故参加したのか、動機を明確に言葉にするのは7人の中でもっとも敬虔な(ただし、度が過ぎている)ドノフリオだったことも見て取れるでしょう。汗だくになって教会を再建した一行に町の子供が水を差し出すシーンがあり、村人との交流場面が教会を中心にする描写に集約されていることが判ります。
 
悪役もまた、宗教的背景を持っています。悪役がプロテスタント資本主義者(悪い意味で敬虔なやつ)なのです。
 
キリスト教圏が資本主義に移行するにあたり、プロテスタント諸派の影響がありました。特にアメリカではその傾向が強い、と見られております。
 
中世からずいぶん長い間、それこそ近世になるまでずっと、キリスト教圏では蓄財と強欲は同一視されて来た訳です。宗教改革以降徐々に、現世で与えられた役割に忠実であること、具体的には日々の仕事に打ち込んで日常生活を送ること、さらに論を進めればお金を稼いで倹約して貯めること、は決して卑しいことではない。この世で与えられた自らの使命を果たす尊ぶべき行為である、とする見方が広まっていきました。
 
この思想はアメリカの建国理念にも関わる話ですが、ものすごく長くなるので切り上げます。
 
さて前述の見方を推し進めて行く内に、こういう思想に辿り着く方が居るのです。
①全ての人に神から与えられた役割がある。②私の事業が上手く行っているのは、私が特に重要な役割を与えられており、なおかつその役を忠実に果たしているからである。③以上の前提に基づいて、私に逆らう輩は不信心者であり、世界の敵である。
 
マグニフィセント・セブン』の悪役の思想と通じるところがあると思いませんか?というか、そのまんまです。
 
主人公と町の住人が一体感を形成するのが教会の再建であり、ボーグの最初の悪行として描かれるのが教会の焼き討ちであることから見ますに、登場人物の立ち位置を描き出す役割を教会の周りに集約していることが判ります。
 
これまで述べてきた内容から考えますに、本来この映画を撮る適任者はデヴィッド・エアー監督だった思うのです。
 
憎むべき敵と自分たちが行っている行為が客観的に見れば対して変わらないことに気付いてしまう『フューリー』を撮ったエアー氏なら、『七人の侍』の苦みのあるラストを現代的に描き直して見せたことでしょう。
 
サウスセントラル地区で育ったエアー氏であれば、“一見ゴロツキだけど実は良いやつ”の描き方も手慣れたものでしょう。
 
そして何よりつい最近、“無謀な任務に送り込まれるはみ出し者の特殊部隊”を扱う映画を撮っていたばかりではありませんか、確かそのタイトルはえーと”スーサイド・・・”
 
やっぱりナシですかね。