無駄口を叩いて渡る世間に鬼瓦

映画について、深読みしたり邪推したり。時折、映画以外の話をすることもあります。

神話の構成と『リメンバー・ミー』

リメンバー・ミー』を観て、より正確にはこの映画の悪役を見て、手前はヒヤヒヤしておりました。
この映画の悪役は“相方の作品を奪って自分の名前で世に出し、世界的名声を手に入れたカリスマ”です。
えっ!いくら故人だからとはいえ、ピクサー自ら創業者のスティーブ・ジョブズをここまで悪し様に言って大丈夫?!

冗談はさておき、『リメンバー・ミー』は手堅い作りです。ものすごく手堅い作りなのです。
どこが、そして何故、手堅いと言えるのか、それは『リメンバー・ミー』は世界中の文化が共通して持っている物語の基礎構造、物語の原型、すなわち神話の構成、をこの上なく忠実になぞっていることに因るのです。

どのあたりが神話の構成なのか要約いたしましょう。えーと、“犬をお供に故郷から旅に出た主人公が橋を渡って祖先の霊と出会いコンテストに出場する。高い塔の上に住む悪人と対決して地下牢に閉じこめられ脱出しもう一回戦って高いところから転落して生還し歌を故郷に持ち帰る話”といったあたり・・・つまりまあ、隅から隅まで全部なんですけど。

物語の基本構造、神話の構造とは以下のようなものです。
①楽園追放→②放浪→③試練→④象徴的な死→⑤世界を救う鍵の入手→⑥復活・現世への帰還→⑦世界の刷新
世界中の英雄神話の基本形は上記の形である、そしてこの展開は、個人の成長過程を象徴化したものであり、同時に家族形成のあり方、さらには社会改革のあり方を示したものである。社会の改変手順を象徴的に示すこと、個人の人格的成長の道筋を示すこと、それこそが神話・物語・フィクションの果たしてきた役割である。というのがジョーゼフ・キャンベルの著書『千の顔を持つ英雄』での主張であり、この本は多くの作家に影響を与えてきました。『スター・ウォーズ』もこの書籍に示された物語理論に従って作られたとのことです。文庫の帯にもそう書いてありますから本当です。

・・・何か、手前は以前にもこの話をしたような気がしますけど、気のせいですかね。
とにかくまあ、『リメンバー・ミー』は、おそらく今までのピクサー映画史上最も忠実に、英雄神話の構造通りに構築されているのです。そう、キャンベル氏の理論に触発して書かれた『スター・ウォーズ』以上に、ね。

①楽園追放
英雄神話では主人公は、故郷を離れて旅に出ます。個人の人格の完成を描く寓話として神話の構造を読み解いた場合、この場面は少年の内的世界の焦燥感を描いたものであり、日々に埋もれて何者にも成れず一生を終えるのではないかという不安が、外的な世界の危機と重ね合わせて描かれたものなのです。

主人公の旅のきっかけが自発的なものであれ、強制的なものであれ、物語上の機能は同じです。冒険を夢見るルーク・スカイウォーカー少年が、養父母からは農場を継ぐことを期待されている、とか、『リメンバー・ミー』の主人公ミゲルは、家族の反対でミュージシャンへの夢を断たれそうになっている、とか、そういった描写がこの場面では描かれる訳です。

②放浪
平穏な日常を離れ旅に出た主人公は、危険に満ちた世界を放浪することになります。この場面にも、神話的物語においては構造に類型があるのです。典型的には、境界線を越える、案内人と会う、忠犬と旅をする。この形式です。

主人公が今まで暮らしていた世界から離れ、それまでとは違う冒険の世界に出発する場面では、門をくぐる、川を渡る、トンネルを通る、橋を渡る、等の描写が世界中の神話で共通して見受けられます。日常すなわち今までの世界と、これから旅する非日常の世界、この二つの世界を隔てる境界線を、門や橋のような構造物に仮託して描いているのです。

主人公が境界線を越え新たな世界に踏み込んだ時、ある役割を持った人物が現れます。その登場人物は、主人公が踏み入れた世界での先輩であり、その世界のルールを新入りつまり主人公に教え、目的地に辿り着くためのアドバイスを与える案内人の役割を持っています。このキャラクターは老賢者や祖先の霊といった姿で描写されますが、それには理由があります。年長者の姿は、主人公より古くからその世界にいることを視覚的に表したものなのです。

逆に、極端に幼く小さな妖精のような姿で描かれることもあります。この場合、見た目通りの年齢でない神秘的な人物であることが示唆されます。いずれにせよ、このキャラクターは老人であったり、子供の姿をしていたり、自らは冒険を完遂出来ないことをその姿で表現しています。

スター・ウォーズ』ではヨーダオビ=ワン・ケノービといったキャラクターが、案内人の役に該当します。『指輪物語』のガンダルフが、迷宮の入り口まで主人公を案内した途端、何故か用事を思いだして行方不明になるのも、彼があくまで案内人であり、冒険の当事者ではなく主人公の成長を促す役であることに因るのです。

「はなれ山の悪竜スマウグを討伐する一行にお主も加わるのじゃ!」と旅のゴールを指し示し、「ルークよ、フォースを信じるのだ」と助言を与え、「デラクルスに会いたいなら、コンサートで優勝しないとな」と試練のルールを説明する。こういった役割を持った登場人物が、神話における案内人なのです。

個人の人格の完成を描く寓話として神話の構造を読み解いた場合、案内人は、家族に教わる世渡りの知恵や、社会のルールを教えてくれる先達といったものを象徴しています。

一方で、案内人と物語上は同様の役割を持った登場人物が、力強い姿で現れ、主人公の旅に積極的に関わってくる場合もあります。ただし、この場合は協力者ではなく、恐ろしい敵対者の姿をとります。案内人は主人公に冒険のルールを教えアドバイスをするキャラクターですが、敵対者として現れた場合、冒険のルールそのものを司るキャラクターとなります。典型的には、エジプト神話のスフィンクスが該当します。大抵は威厳のある恐ろしい姿を持った怪物として描かれます。物語内の試練の合格条件を伝えるだけではなく、審判の役割を兼ねたキャラクターで、ライオンや鷲、虎といった、その文化圏での王者の資質を体現した動物になる傾向があります。場合によっては、鷲の羽を持った獅子(忠義と勇気の象徴)と、二重三重に象徴を組み合わせた姿で現れることもあります。

いずれにせよ、主人公を試練の場に招き、鍛え、成長を促す役割を持ったキャラクターであることは、案内人も審判も何ら変わらないのです。

主人公はお供を連れています。主人公を危機から救ったり、共に悪役と戦ったり、試練の手助けをする忠実な仲間です。お供はしばしば、動物の姿で描かれます。これには理由があるのです。旅のお供は、主人公の人格的徳性、例えば勇気や知恵や優しさとか、そういった主人公の魂が持つ一側面を象徴するものなのです。

旅のお供は、主人公を助けるという役割は案内人と重なりますが、その象徴しているものは異なります。案内人は、諸先輩方からの助言や家族の教訓といった、主人公の自我の外から与えられた助力を表現しています。一方、旅のお供となる動物は主人公の魂の内側から現れた案内人なのです。したがって、主人公と独立した個人ではなく、主人公の自我の延長線上であることを象徴して、人間ではなく動物の姿で描かれるのです。
スター・ウォーズ』だと、R2-D2がこの役割に該当しますね。

忠犬役が人間の姿で描かれることもありますが、その場合も一個の完結した人格という描かれ方ではなく、人間の徳性を象徴する一芸に秀でているキャラクターで、怪力や千里眼など特定の能力にステータスを割り振った人物として表現される傾向があります。

③試練
悪しき父親像と対決する場面です。主人公は冒険の旅の終着点において、試練の総仕上げとなるラスボスと退治します。ここにも物語の典型的な構成というのがあります。岩山に住む魔王やドラゴン、高い塔のある城の暴君、雲の上で暮らす巨人など、高い所を住処とする傾向があります。これは、誰もが存在を知っており、かつその場所に辿り着くまでにはとてつもない困難が待ち受けていることを、メタファーで表現したものです。

お姫様が高い塔の上に幽閉されているというパターンもありますが、これもまた物語上の意味付けは同じです。冒険のゴール地点は皆知っているが、余りに困難であるため主人公以外たどり着けないことを例えたものであるから、岩山や高い塔、雲の上に目的地を設定しているのです。

岩山の頂上に住む魔王、又は城の最上階で暮らす暴君は年長者の姿で描かれます。これにも理由があります。冒険の総仕上げである最後の試練は、主人公より古くから存在し、世の中を支配してきた存在との対決です。社会改革の行程を象徴表現で語ったものが神話である、と読み解くならば、ラスボスは改革を阻む社会規範や圧制を暴君の姿で描き出していることが判ります。個人の人格的成長を象徴表現で語ったものが神話である、と読み解くならば、主人公が子供時代の自我と決別して成長するために、乗り越えなければならない親、そしてそれは大抵は家長である父親、を象徴したものとなります。

まさしく『スター・ウォーズ』で最も有名な場面の一つが、「アイム・ユア・ファーザー」なのも、神話の構成に則っているのです。『リメンバー・ミー』でもまた、あこがれていた理想の大人像が誤りであったことを主人公が悟る場面がありました。そして、ミゲル少年が決別する悪役は、「高い塔に暮らす暴君であり、主人公の精神的な父親」であることから、これもまた神話の構成に則っていることは明らかです。

④疑似的な死
神話上の試練において、主人公は疑似的な死を体験します。あるいは本当に一度死んで蘇るというパターンもありますが、えーとエジプト神話のオシリスとかがその例ですね、まあとにかく、主人公は疑似的な死を体験します。地下牢に閉じこめられたり、暗い洞窟をさまよったり、・・・これはある意味埋葬を象徴している訳です。お姫さまが幽閉されている場所が高い塔であるのに対し、主人公が閉じこめられるのは地の底、というのは、象徴しているものが違うことによります。

あるいは、高所からの転落というのも、物語における一般的な死の疑似体験として使われるモチーフです。崖から落ちたり、滝に飛び込んだり、そういった場面が該当します。余りにも使われ過ぎているので、主人公が崖から落ちたときに本当に死んだと思う人はもう誰もいないくらいですが。

先程の「アイム・ユア・ファーザー」の場面を思い出してください、その直後何があったか、「ノォォー」で、ほら、落下していったでしょう。これは、誤った父親像の修正を迫られた場面であり、主人公が成長するために子供時代の自我をいったん手放すことを象徴した場面なのです。

リメンバー・ミー』では、主人公は、家族の反対でミュージシャンになる夢を閉ざされそうになっています。もしミュージシャンになるなら、家族を捨てて生きていくことになるでしょう。一方、死者の国の案内人となるヘクターは、生前はミュージシャンで、家族との再会を願っています。ミゲルとヘクターが、悪役(悪しき父親像、誤って成長した主人公の姿)によって地下に幽閉される際、同房になるのは偶然ではない、むしろ物語上の必然なのです。この場面で、主人公は自分の将来の新たなモデルケース、成長の指針、となる大人像を得るわけですから。

⑤世界を救う鍵の入手
神話において、主人公が最大の試練を乗り越えたとき、物語上で最も重要なキーアイテムを入手します。疑似的な死を乗り越える試練が、洞窟探検であった場合、洞窟の奥深くで悪役を倒す武器を手に入れます。これは、子供時代の古い自我を乗り越え、親世代に取って代わる準備が出来たこと、青年期を迎える新たな自我を確立したこと、を象徴的に描いている場面です。

 『リメンバー・ミー』が巧妙なのは、おそらく神話的構造に作り手が自覚的であることに因ると推測しているのですが、ミゲル少年が乗り越えるべき課題が1つではなく、2つであり、しかもそれぞれについて疑似的な死を乗り越え、キーアイテムを入手している構成をとっていることが挙げられます。

ミゲル少年が直面している問題は、①家族が反対しているのでミュージシャンになるのが無理そう、②もしミュージシャンになるなら、家から追い出される。ここで、“それでも夢を追い求めるのだ!いつかはきっと家族も判ってくれるはず!”としなかったことが、『リメンバー・ミー』で最も巧妙な部分です。

地下牢すなわち疑似的な死の場面その1で、ヘクターの姿からミゲル少年は“家族思いのミュージシャン”という理想の成長ロールモデルを得ます。しかし、ミゲル少年がその夢を実現するには、何とか家族の了承を得なければならない。

そこで、疑似的な死の場面その2です。手前先程、神話上の疑似的な死の場面として、高所からの転落を例に出しました。『リメンバー・ミー』でもその場面があります。
ここで主人公を手助けするのが、敵対者の姿をとった案内人(空飛ぶ猫科動物!)であり、このキャラクターは明らかに“家族の掟”を象徴しています。

したがって、疑似的な死その1を協力的な案内人と一緒に乗り越えることによって、ミュージシャンになる夢を確固たるものにし、敵対的な案内人の助けによって疑似的な死その2から救い出され、家族からの理解を得たことを象徴しているのです。『リメンバー・ミー』ではミュージシャンになる夢と家族からの理解を得る、2つの課題を解決するために、それぞれ異なる案内人による試練の場面が用意されているのです。

⑥復活・現世への帰還
神話においては、主人公は冒険を終えて故郷に帰還します。手ぶらってことはまず有り得ないですね。大抵は宝物を持って凱旋することになります。

神話の構造を個人的な成長と成功の物語に持ち込んでいるもの、民話、においては、冒険を終えて持ち帰るのは世俗的な財貨であったり、打出の小槌や金の卵を生む鵞鳥のように、尽きることのない富を象徴するものとして描写されます。

神話の構造を世界を改革する英雄の物語に持ち込んでいる場合、冒険を終えて持ち帰るのは、火であったり、トウモロコシの種であったり、文字であったりします。これは単に無尽蔵の富を指すのではなく、他人に分ければ分ける程その価値を増し、その量が増えていくものこそが真の宝であることをも示しているのです。

リメンバー・ミー』で主人公が持ち帰った宝物も、他人に分け与えることでその価値を増し、世界に広がっていくもの、歌そして音楽でした。これもまた、神話の構造に則っています。

⑦世界の刷新
物語の基本構造においては、主人公が宝物と共に故郷に帰還することによって、故郷が抱える問題や主人公が直面している課題は解決され、物語は大団円を迎えます。映画であればここで、感動的なテーマ曲と共にエンドロールが流れ始めることでしょう。

こうしてルーク・スカイウォーカーは父と和解し、ミゲルの高祖父の名誉は取り戻され、ハドソン・ホークカプチーノを飲むことができましたとさ、めでたしめでたし。

以上のように、「リメンバー・ミー」は神話の構造を忠実になぞった映画なのでした。


えーと、最後に色々台無しな一言をもう一つだけ。
どなたか『ブック・オブ・ライフ2』がどうなったのかご存じの方はいらっしゃいませんでしょうか。